3 知的戦士養成機関スメラ学塾(承前)
坂倉準三、川添紫郎らのクラブシュメールと仲小路彰、小島威彦らのスメラ学塾とはどのような関係にあったのか、実は明確ではない。
しかし、その一端をうかがわせる記述が、後藤象二郎の孫、川添紫郎=川添浩史がオーナーであった六本木のイタリアンレストラン「キャンティ」を扱った野地秩嘉『キャンティ物語』(幻冬舎文庫)に出てくる。
1940年、日本に戻った浩史はパリ時代に獲得した外務省の外郭団体、国際文化振興会嘱託という身分のまま、フランスから映画を輸入したり、上野でレオナルド・ダ・ビンチ展を開催したり、といった文化活動を続けた。そして翌41年、太平洋戦争がはじまる年の春、妻の原智恵子、オペラ歌手の三浦環、パリ時代の友人で建築家の坂倉準三らとともに赤坂の檜町に芸術研究所「クラブスメル」を設立する。(中略)
戦争中、浩史は国際文化振興会を通じて、仲小路彰という在野の学者と知り合う。旧制五高で仲小路の後輩だった井上[清一]が、浩史をどうしても彼に引き合わせたいと思ったことが発端だった。1901(明治34)年仲小路は桂太郎内閣の農商務大臣だった仲小路廉の次男として生まれ、熊本の旧制五高から東京帝国大学文学部哲学科に進む。しかし体が弱いためどこにも就職せずに、父の財産をもとに自ら「すめら[ママ]学塾」という私塾を開き、生涯、研究と著述に没頭する。(中略)
浩史は仲小路に傾倒し、「クラブスメル」にも参加してくれるよう頼み、仲小路が示唆するアイデアから、自らの文化や芸能による海外との交流プロジェクトを開発していった。
おや、ここでは、「クラブスメル」。以前「スメルクラブ」とする文献も紹介したね。「クラブシュメール」の旗色が悪くなってきたが、まあこのままにしておこう。それに、坂倉の年譜では、クラブの設立は昭和15年だったが、ここでは昭和16年になっている。やはり、黒岩さんや書物奉行さんたちみたいに一次資料にあたったり、関係者の取材をできればいいのだが、シロートの限界だなあ。
ちなみに、国際文化振興会という外務省の外郭団体には、戦前大藤時彦が勤めていたが、さすがに今のところ、大藤の名前には出くわさない(柳田の『炭焼日記』における記述から、予想はされていたが、大藤は戦後CIEに勤務していたこともわかった。まさかCIE図書館!?)。