神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

資生堂と柳田國男の光と影


柳田國男をめぐる人間像には、色々謎が多い。


柳田國男写真集』(大藤時彦柳田為正編。昭和56年3月)中「父と写真」(柳田為正)から引用すると、

昭和初年のころ日本写真会会長だった福原信三氏とも父はまんざら無関係ではなかったようです。というのは、同会の会報「光と其諧調」の初期の号や、作品集の類が、毎回父のもとに寄贈されていて、これまた例により小生の手元に保存されているからです。右会報をいまあらためてめくってみますと、安成三郎氏がその編集に当たっておられたらしく見受けられ、さては会報やその他の送付も、同氏のさし金かと察せられました。福原氏は資生堂の社主であられしものと、承知します処、安成氏も当時同社の社員、かつ福原氏の側近顧問格であったようです。安成氏はこのころ何やかやと私の父や一家の世話を焼いて下さっていたかたですが、(後略)


安成三郎と福原信三の関係については、『福原信三』(矢部信壽編著)によると、


誌名は『写真芸術』にきまった。同人形式で、写真を芸術に高めようとする運動が、これから展開されるはずだった。同人は、信三と信辰の兄弟、信三の正則[中学]時代の友人、佐藤信順、千葉薬の後輩、掛札功、信辰の友人、太田黒元雄などで、編集者として安成三郎が加わった。安成は、中国古典に造詣が深かった。また、山魯の号で、俳句をやっていた。(中略)『写真芸術』としても、信三個人としても、後に<安成さんは福原さんの手>といわれた関係は、ここからはじまった。


「写真芸術」の創刊は大正10年6月である。
福原や安成と、柳田の直接の交流を示す記録はほとんど見当たらない。
柳田國男年譜」の昭和3年12月8日の条で、方言研究会の初会合の参加者に安成三郎の名が見えることと、福原の『武蔵野風物』(昭和18年1月)の序(昭和17年5月付け)を柳田が書いていることぐらいである。


安成三郎の長兄貞雄は、福田久賀男が私淑した人物であり、また、次兄二郎は楽天社で「楽天パック」や「家庭パック」の編集、平凡社で「大百科事典」の編集をした人物である。詳しくは、昨年7月に刊行された『安成貞雄を祖先とす−ドキュメント・安成家の兄妹−』(伊多波英夫著)を見られたい(南陀楼さんが1月2日に紹介していた)。同書には次のような記述がある。


大正15年、資生堂は意匠部の充実のため、在米時代の友人大蔵組支店長高木契*の兄で、日本画家高木量を招いている。高木は梶田半古の門における前田青邨の後輩である。(中略)高木は結局、絵筆を折って資生堂で意匠の仕事に専念することになるが、その入社交渉の使者に立ったのが三郎である。

*:「くにがまえ」に壱という字