『日本エスペラント運動史』により、終戦後のエスペラント学会を見てみよう。
昭和20年12月16日の第32回大会では、大阪のエスペラント有志から、書面で「エスペラント界での戦争責任の調査とエスペラント運動弾圧者の追及」について提案がなされ、藤澤などのエスペラント報国同盟のメンバーの追放が求められた。
エスペラント報国同盟とは、昭和12年12月に藤澤ら一部のエスペランチストによって、結成されたもので、日中戦争に関し、日本の正当性を世界に知らせるため、エスペラント語の文章を世界のエスペランチストに配布することを目的とした団体。3月18日に言及した藤澤の発言中「エスペランチストも非常に僕を煙たがつてゐる」というのは、おそらくこうした活動を指している。
この追放を求める提案で、議論が沸騰したが、提案者が直接出席していなかったこともあり、小坂狷二の動議により、大会提案としてはふさわしくないとの理由で不採択となった。
議論の中で「戦争責任者を指導者から外すことは意味があるが、既に藤沢さんは学会の理事ではなく、もはや影響力はもっていない」との発言があったことがうかがえる。藤澤は、昭和18年においても、学会の理事であったが、偽史論争中でエスペラントを「すつかりやめちやつた」という発言が本当であれば、論争(昭和18年7月26日)の前には辞めていたと思われる(個人的には、島田の追求に対して、藤澤が嘘をついていたという方がおもしろいのだが)。藤澤は、大正6年にその講演を聴き、エスペランチストになるきっかけを与えてくれた小坂に救われたことになる。なお、終戦時点で藤澤は北京にいた(昭和22年帰国)。
昭和31年の日本エスペラント運動50周年記念日本エスペラント大会表彰式で、藤澤は、旧協会以来のエスペランチストで引き続き活躍している35名の一人として感謝状を贈られた。どのような感慨を覚えたか、聞いてみたかったものである。