神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

黒岩康博「新大和人物志第17回新藤正雄」『ならら』令和3年12月号への補足


 『月刊大和路ならら』令和3年12月号(なら文化交流機構)を御恵投いただきました。ありがとうございます。黒岩康博先生の連載「新大和人物志」第17回「新藤正雄」が載っているので、Twitterで「奈良まで買いに行かねば」とつぶやいたところ、回り回っていただくことになりました。新藤については、新しき村奈良支部からの葉書を「飛鳥園内新しき村奈良支部の新藤正雄宛柳宗悦講演会の案内葉書 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したことがある。詳しい経歴は不明だったが、本論考によると、天理中学校で化学・地理を教授し、山岳部の顧問だった。また、絵馬堂迷九里の号を持つ趣味人・蒐集家で、蒐集物は「浮世絵、落書、絵馬」、日本我楽他宗奈良別院の一員、謄写版冊子『黙魯庵漫録』を発行していたことなどが分かった。
 趣味人ということで『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)を見たが、載っていなかった。論考の冒頭に出てくる天理中学山岳部の部報の旧蔵者で、石魚庵と号した『菟田之方言 奈良県宇陀郡方言集』(私家版、昭和14年10月)の著者辻村佐平も載っていない。ただ、辻村精介は載っていて*1、蒐集分野は「山岳書、随筆書、万葉関係書」である。もしやと思って、佐平著の方言集の奥付を見ると、佐平の住所は奈良県宇陀郡榛原町2552で蒐書家リスト記載の住所と番地まで一致していた。同一人物と思われる。更に、グーグルブックスで「辻村精介」を検索すると、いくつかの文献がヒット。『日本民俗学大系』10巻口承文芸(平凡社、昭和34年11月)では、前記方言集の著者を辻村精介としているようだ。

*1:出典は、『日本蒐書家名簿』(日本古書通信社昭和13年6月)。

永井荷風が見逃した分離派建築会第2回作品展(白木屋)

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 月日の経つのは早いもので、京都国立近代美術館で「分離派建築会100年:建築は芸術か?」展が開催されてから、1年以上過ぎた。久しぶりに分離派建築会作品展ネタをアップしよう。1年前に作家や芸術家の日記から作品展を観覧した記述を見つけようとしたが、結局見つからなかった。永井荷風の『断腸亭日乗』も先ず調べた1冊である。

(大正十年)
十月廿一日、百合子*1白木屋に赴き、陳列の洋画を見る。(略)

 白木屋では、10月20日~24日に分離派建築会第2回作品展が開かれていた。しかし、「洋画を見る」ということなので、残念ながら分離派建築会作品展ではなさそうだ。荷風は分離派建築会の方は見逃したのだろう。こちらの展覧会がどういう展覧会かは分からなかった。
 分離派建築会作品展に関する拙ブログのエントリーをまとめておこう。

・「大正期における展覧会場としての星製薬ーー分離派建築会第3回作品展も星製薬だったーー - 神保町系オタオタ日記
・「昭和3年9月、野上弥生子は分離派建築会第7回作品展を見たか? - 神保町系オタオタ日記
・「百合子は起つ。分離派建築会作品展と宮本百合子 - 神保町系オタオタ日記
・「分離派建築会と板垣鷹穂・堀口捨己編『建築様式論叢』の六文館主鹿島鳴秋(本名・鹿島佐太郞) - 神保町系オタオタ日記
・「大正教養主義のシンボル『三太郎の日記』の阿部次郎に届いた第1回分離派建築会作品展の案内葉書 - 神保町系オタオタ日記
・「分離派建築会の山田守と木下杢太郎の「橋の会」ーー図録『分離派建築会100年』の全国カタログ展経済産業大臣賞受賞を祝してーー - 神保町系オタオタ日記
・「工繊大の研究者の皆様、『マヴォ』同人牧寿雄の消息を調べて<(_ _)>ーー牧寿雄は分離派建築会作品展を観たかーー - 神保町系オタオタ日記

 なお、展覧会開催状況の調べ方については、国会図書館の「展覧会図録・カタログ(展観目録)を探す | 調べ方案内 | 国立国会図書館」参照

*1:田村百合子。後に伊藤熹朔夫人。

[カフェー]東寺ガラクタ市で見つけたカフェー業界のゴシップ満載『紅燈新聞』(神戸市の紅燈新聞社)

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 『紅燈新聞』(紅燈新聞社)の16号(昭和8年8月25日)と22号(9年11月25日)は、4年前に東寺ガラクタ市で入手。2号合わせて100円だった。各4頁。喜び勇んで、ブックス・ヘリング、古書善行堂、文庫櫂にお見せしたっけ。こういうのを見慣れたベテラン文庫櫂では、「まとまっていれば、市会で値段は付きますが…」とあまり感心してくれなかった(^_^;)
 発行所の紅燈新聞社は神戸市上澤通7丁目に所在、編輯発行兼印刷人は久元勇治。写真をTwitterに挙げた時に、神戸市長の久元喜造氏と何か関係があるのだろうかという反応があった。詳しい経歴は、調べてみたが分からなかった。ただし、16号に主幹久元静浦はかつてカフエー福原会館のマネージャーだったが現在は違う旨の社告が出ているので、静浦が勇治の号とすると、福原会館の元マネージャーだったことになる。
 本誌は金沢文圃閣から『帝国日本雑誌新聞総カタログーー紙メディアの昭和戦前期1932年版ーー』として復刻された『全国新聞雑誌通信社名鑑』(全国新聞雑誌通信社聯盟、昭和7年12月)に『紅灯』として記載されていて、当初は紙名が微妙に違っていたようだ*1。また、「社長又ハ社主」も発行人と同じ久元だったことが分かる。ちなみに、同名鑑の兵庫県の部には、『紅街新聞』、『神戸紅街新聞』、『花街いろまち新聞』、『夜の神戸』なども載っていた。
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 本誌の記事は、写真に挙げたようなカフェー業界のゴシップが中心である。広告も神戸市のカフェー、酒場が多い。カフエー海洋軒、高級酒場赤風車、新進酒場マル、精養軒、カフエー福原会館、カフエーほまれ、カフエマツヤ、三洋喫茶店などである。このうち、「あやすーぃ雑誌『夜の神戸』の編集者山本周五郎と寺田新社長 - 神保町系オタオタ日記」でも利用した『創立十周年記念誌 附組合員名簿』(湊川西洋料理酒場喫茶業組合、昭和12年3月)で経営者が分かるものを記録しておこう。精養軒は林鯛一郎、福原会館は矢次宅蔵、マツヤは松本寅一、三洋は松村マツである。
 久元は、紅燈新聞社の他に神美社も経営していたと思われる。本誌16号に邦画雑誌『神美』2号の広告が載っていて、所在地は紅燈新聞社と同じである。また、社告として元青山写真館主任の永山久光が紅燈新聞社と神美社の写真部主任として入社した旨が記載されている。『神美』は「唯一の関西画壇展望誌」とあり、これも気になる雑誌である。昭和10年版名鑑に記載されているので、少なくとも1年は続いたことになる。
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*1:『紅灯』とする昭和7年版名鑑は同年10月末現在で、一方『紅燈新聞』は16号から月2回発行を逆算すると8年1月創刊となるので、『紅灯』を廃刊して『紅燈新聞』として再スタートした可能性がある。なお、国会図書館デジコレで見られる昭和10年版名鑑では『紅燈新聞』である。

「[翻刻]青果日記(昭和三年・昭和四年)」(国文学研究資料館)への補足ーー眞山青果とプラトン社・博文館・春陽堂の編輯者指方龍二ーー


 『真山青果とは何者か?』(星槎グループ発行・文学通信発売、令和元年7月)255頁に、寺田詩麻先生により青果の昭和3年12月から5年3月にかけての日記が紹介されている。日記好きの私としては読みたいなと思っていたら、やってくれました。機関リポリトジ「WEKO - 国文学研究資料館学術情報リポジトリ」で翻刻が公開されたのである。索引も付いていて、便利。早速読んだので、気付いた点を補足しておこう。
 索引によれば、指方という人物が5回出てくる。一部紹介すると、

(昭和三年)
十二月三十日
 (略)
 指方君浄書のカードを持来る。筆耕料四十円ほどなり。(略)
(昭和四年)
三月六日
 (略)昼過指方君来る。沢田君についての記事を求むる也。よき程に答へ置く。
 (略)

 青果は昭和3年の前期にプラトン社の『女性』へ「坂本龍馬」を、『苦楽』へ「薩摩紅梅」を執筆している。プラトン社と言えば、「プラトン社の『苦楽』創刊 - 神保町系オタオタ日記」や「読める日記帳・資料として使える日記帳としての『文藝自由日記』(文藝春秋社出版部) - 神保町系オタオタ日記」で言及した編輯者指方龍二が在籍していた出版社である。青果の日記に出てくる指方は、指方龍二の可能性が高い。
 指方の経歴は、『現代出版文化人総覧 昭和二十三年版』(日本出版協同、昭和22年12月)の「現代執筆家一覧」に立項されている。それから要約すると、明治31年長崎県生、別名神島英夫。職歴は「博文館[、]春陽堂、明朗*1各編輯」、現職は「日本ユーモア編輯長、豊文社」である。昭和3年に解散したプラトン社から博文館に移った時期は不明である。『文藝年鑑:昭和六年版』(新潮社、昭和6年3月)の段階で、『朝日』(博文館)の編輯者である。青果は、昭和4年1月創刊の同誌同年4月号から6月号にかけて「乃木将軍」を連載している。前記同年3月6日の条中「沢田」は同月4日に亡くなった沢田正二郎で、「乃木将軍」は沢田のために書いたものである。また、『近代文学研究叢書』64巻(昭和女子大学近代文化研究所、平成3年4月)所収の「眞山青果」の「資料年表」によると、指方は『週刊読書人』昭和43年5月6日号に「作家の代作と二重売り」を書いている。これらにより、日記中の指方は博文館の編輯者としての指方ではないかと推定できるが、確証はない。研究者による調査が待たれる。
 この他、昭和3年12月30日の条に「孚水書(ママ)房の主人」として出てくる金子孚水については、「島田筑波と春峰庵事件の金子孚水による『孚水ぶんこ』ーー若井兼三郎の蔵書印「わか井をやぢ」についてーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。今回の翻刻は前半ということなので、後半を楽しみに待ちます。
参考:「『調査研究報告』41号(国文学研究資料館)の「眞山青果文庫調査余録」に神保町系オタオタ日記 - 神保町系オタオタ日記
 

*1:『ユーモアクラブ』(春陽堂文庫出版)の改題誌

『北方人』38号(北方文学研究会)ありがとうございますーーかわじ・もとたか氏企画「大橋歩Vs水森亜土Vs本くに子」展開催ーー

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 盛厚三氏から『北方人』38号(北方文学研究会、令和4年4月)を御恵投いただきました。ありがとうございます。
 川口則弘「夏目千代はまったくの新人か。」は、昭和35年下半期の第44回直木賞候補者の一人だった夏目千代(本名鈴木照子)について、同じく候補者だった星新一の評伝(最相葉月著)が夏目と星を「まったくの新人」としていることに異議を唱えたもの。ゴシップ満載の自伝小説『花の放浪記』(朋友社、昭和31年)こそ、夏目の最大の輝きだという。同書の後半を盛り上げる巨人軍の投手沢村栄治との恋の行方が、面白そうだ。
 盛氏の「生涯青春」は、長谷川光二という不思議な人物を調べるため、長谷川と交友があった小宮山量平(理論社創業者)に連絡をとった盛氏が平成3年以後小宮山から届いた100通の手紙のうちから、小宮山の晩年の高踏な精神を知ることのできるものを紹介している。小宮山からの初めて手紙(平成3年2月14日付け)を引用しておこう。

(略)私の銀行給仕勤めの上長が渋沢敬三さんにて、この渋沢&長谷川の関係が一つの友愛ロマンです。加えてわが一橋での師上原専禄&長谷川光二は、正に「ライバル」としてのすばらしい知的典型で、その激しい息吹それ自体が、わが思想上の埋もれた宝物でしょう。(略)

 かわじ・もとたかさんの「装丁挿話」は順調に13回目。そのかわじさんが企画する「えっ!古本屋で展示会?」第5弾「『カワイイ』・『おしゃれ』・『ホッコリ』を描く装丁本展 大橋歩Vs水森亜土Vs本くに子」が今月箱根の本喫茶わかばで、来月西荻窪西荻窪モンガ堂で開催される。お近くの方や近くに行かれる方は、ぜひとも行きましょう。
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中島俊郎「寿岳文章の和紙研究」を頂くーー国際シンポジウム「20世紀の和紙ーー寿岳文章 人と仕事ーー」公開中ーー

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 拙ブログの何割かは特定の人向けに書かれたネタで、12年前に亡くなられた黒岩比佐子さんがその一人だった。そして、黒岩さんに村井弦斎考案のタラ根湯薬のパッケージを贈ったのが、吉永進一さんである*1。パッケージは、吉永さんが藤枝ブックスで見つけたものだったと思う。吉永さん向けに書いた拙ブログの記事も多かった。しかし、その吉永さんも先月31日に亡くなられた。6年前病院に見舞いに来てくれと言われた時からこの日が来ることは覚悟はしていたものの、やはり別れはとても寂しい。亡くなった日は、頼まれていた原稿の締め切り日である。数日前に栗田英彦君に提出していたが、出していなければ訃報に接して「原稿を出してね」と言われた気分になっていたかもしれない。
 あらためて、吉永さんの御冥福をお祈りします。親しかったとはいえ、私には先輩・後輩の関係に過ぎない。御家族や横山茂雄さんらの親友には、とてもつらいことでしょう。吉永さんは、今頃井村宏次先生、川島昭夫先生、黒岩さんらと古本話をしているだろう。私もそのうち参加できるかもしれない。
 黒岩さんや川島先生と親しかった中島俊郎先生から、『甲南大学紀要 文学編』172号の抜刷「寿岳文章の和紙研究」をいただきました。ありがとうございます。昨年10月16日に開催された国際シンポジウム「20世紀の和紙ーー寿岳文章 人と仕事ーー」で中島先生が発表した「寿岳文章の生涯と和紙研究」では時間の制約上割愛された、寿岳が和紙研究を始める契機となった書誌学との関係、手漉紙の世界的研究者・実践者だったダード・ハンターとの交渉、『紙漉村旅日記』の意義などを分析・解明したものである。とくに同日記に関連して、寿岳が荷風の『断腸亭日乗』を「人に見せることを意図しており、そのソフィスティケーションが鼻につき、私は嫌いだ」と否定する一方、『高見順日記』を高く評価したことが紹介されていて、とても興味深かった。
 シンポジウムの内容は、向日市文化資料館のホームページ「催し物案内/京都府向日市ホームページ」から観ることができるので、ぜひ御覧ください。なお、『地方史研究』415号(岩田書院、令和4年2月)に家塚智子氏によるシンポジウム参加記が掲載されていた。
参考:「図録『寿岳文章 人と仕事 展』の刊行ーー向日市文化資料館で公開された向日庵資料の凄さーー - 神保町系オタオタ日記
 

『大正新脩大蔵経』を予約した人々ーー「黒地蔵文庫」の中里介山もーー

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 岡崎のブックス・ヘリングで入手した冊子『教化問題並に悪思想防止策:文部大臣に建言書の写』(皇道普及会事務所、昭和4年4月)については、「大連にあった皇道普及会の会長大石萬壽ーー昭和4年日本の古典神典を翻訳して猶太民族に配れと文部大臣に提言ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した。今回紹介する『会員名簿』(大正一切経刊行会、昭和6年)も、ヘリングで小冊子群を一括1,000円で売っていただいた中の1冊である。ありがとうございます。大正13年から昭和9年にかけて刊行された100巻の『大正新脩大蔵経』の予約者名簿(昭和6年4月現在)と思われる。地域別(道府県、朝鮮、台湾、満洲・関東州、支那)、龍谷大学、書店、書店扱、海外に分類されている。
 当然ながら、仏教者や寺院が多数を占める。その他、帝国図書館東洋大学図書館などの大学図書館も見られる。面白いのは、道府県立図書館が静岡県立葵文庫、石川県立図書館と鹿児島県立図書館だけしかないことである*1。仏典のような特殊で大部の書籍は避けられたか。
 仏教者の周辺にいた著名人としては、今武平、姉崎正治*2野依秀市*3岡本一平志賀直哉中里介山、久米民之助*4弥吉光長*5、北昤吉*6富士川游、和辻哲郎柳宗悦、久保虎賀寿*7、中井宗太郎、中山太一、伊藤長兵衛*8、シルヴァン・レヴィなどの名が挙がっている。
 介山は、東京府西多摩郡三田村の「黒地蔵文庫内」となっている。笹本寅『大菩薩峠中里介山』(河出書房、昭和31年9月)の年譜によれば、介山は大正14年高尾山の居を御嶽山麓三田村沢井黒地蔵に移して草庵生活に入り、昭和3年10月に黒地蔵草庵を郷里の羽村に移転している。三田村時代の草庵を「黒地蔵文庫」と呼び、蔵書印も作成していたようで、国文学研究資料館の蔵書印データベースに「蔵書印DB黒地蔵文庫」がある。また、小田光雄近代出版史探索Ⅲ』(論創社、平成20年7月)の「503 大正一切経刊行会『大正新修大蔵経総目録』」で紹介された会員名簿(昭和5年5月現在、入会申込順)は、2024人の会員に続いて追加として介山を筆頭に540名を挙げている。
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