神保町系オタオタ日記

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島田筑波と春峰庵事件の金子孚水による『孚水ぶんこ』ーー若井兼三郎の蔵書印「わか井をやぢ」についてーー

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 東京古書組合の紙袋に入れたままの雑誌が数冊出てきた。最後に東京古書会館に行ったのは、カラサキ・アユミさんと書物蔵さんのトーク・イベントが開催された平成30年8月だっただろうか。その時に入手したのかもしれない。雑誌のうち、『新東京』4号(劇団新東京事務所、昭和6年3月)には、古書かんたんむの300円の値札が残っている。また、『岡田虎二郎伝』(田原静坐会、昭和53年5月)は『田原町史 下巻人物編』の抜き刷りで、古本一角文庫の200円の値札がある。東京の古書会館の古本市では、こういった古い雑誌の端本や小冊子が数百円で大量に出るので、良さげなものを色々選べる楽しみがある。毎週行ける人が、うらやましい。『古典風俗』創刊号(朝日書房、昭和9年8月)は、後に『民俗の風景』に改題され、「内田文庫主任彌吉光長と霊感透視家山本精一郎の『民俗の風景』(朝日書房) - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。
 今回は、『孚水ぶんこ』創刊号(孚水画房、昭和7年5月)を紹介しよう。発行者でもある金子孚水(本名清次)の「わか井をやぢ」が掲載されている。外国にある錦絵の優品に浮世絵商林忠正の印とともに押された若井兼三郎の印「わか井をやぢ」を紹介したものである。この蔵書印は、国文学研究資料館の蔵書印データベース「蔵書印DBわか井をやぢ」でも見ることができる。
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 若井の蔵書印は、必ずしも本人が押したものではなかったらしい。定塚武敏『海を渡る浮世絵:林忠正の生涯』(美術公論社、平成58年5月)には、次のようにある。日本の工芸品等の輸出会社である起立工商会社の副社長を辞め、パリで林と共に興した若井・林カンパニーを明治19年に解散した後も、若井が林の浮世絵収集に協力していた時期の話である。

「(わか井をやぢ)という判形の印が押してあるのは、みんな私の家で押したもので、若井さんの顔をつぶしてはいけないといって、印を預って置きサービスの意で押しました。」と里子は昭和十三年玉林晴朗氏に語っている。

 里子は、明治22年に林と結婚した妻で、東京で集荷を担当し、パリに送っていた。文中若井の「顔をつぶしてはいけない」とか「サービスの意で」蔵書印を押すというのは、意味が理解できない。それはともかく、印顆自体は本物でも他人が押す場合があるという事例である。このような事例は、反町茂雄『一古書肆の思い出 3』(平凡社)にも出てきたのが、印象的である。昭和22年九条公爵家放出の希覯本を落札した反町が、蔵書印が推されていないので九条家の印顆を落札した江田文雅堂から借りて『中右記部類抄』などに押印したというエピソードである。文雅堂からは、ニヤニヤ笑いながら「しかし反町さん、無暗に他の本に押しちゃあいけませんよ」と言われたという(^_^;)
 ところで、『孚水ぶんこ』の奥付によると、編輯人は「『調査研究報告』41号(国文学研究資料館)の「眞山青果文庫調査余録」に神保町系オタオタ日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及した島田筑波である。島田は編輯だけではなく、同誌7号、昭和8年9月に「春章十二ヶ月の書聯について」を執筆していて、『島田筑波集 上』(青裳堂書店、昭和61年5月)に収録されている。
 金子は後の昭和9年写楽歌麿などの肉筆浮世絵の贋作事件である春峰庵事件に関与し、有罪判決を受けることになる。金子と親しかったであろう島田は、世間を騒がせた事件に驚いたことだろう。
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