神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

百合子は起つ。分離派建築会作品展と宮本百合子

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 野上彌生子について、分離派建築会作品展を観たとは確認できなかった*1。では、友人の宮本百合子はどうだろうか。なんと言っても、父親が建築家の中條精一郎(ちゅうじょう・せいいちろう)である。更に、現在京都国立近代美術館で開催中の「分離派建築会100年 建築は芸術か?|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto」の図録所収の田路貴浩「分離派建築会ーーモダニズム建築への問題群」で、『国民美術』復興展号の巻頭言で中條は「容積のシンフォニー」という建築の新潮流に言及しているが、これは分離派建築会のメンバーの一人である山田守の「ヴォリュームのシンフォニー」*2から借りたのだろうと推測している。この大正13年4月に開催された復興展(帝都復興創案展覧会)には、分離派建築会のメンバーも復興案を展示していた。精一郎は、同展覧会だけではなく、作品展も観覧していたかもしれないのである*3
 さて、長女の百合子はどうだったか。作品展が開催された大正9年から昭和3年までの百合子の日記*4を読むと、分離派建築会の周辺の人物が登場する。第1回作品展(大正9年7月、白木屋)の芳名録の同月22日に芥川龍之介岡田信一郎の名前が並んでいるが、2人とも百合子とは面識があった。

(大正5年)
 1月30日 (日曜)
 美音会に行く。(略)青柳有美岡田信一郎氏などに会う。(略)
(大正6年)
 3月3日 (土曜)
 (略)
 久米[久米正雄ーー引用者注]、芥川*来訪。(略)芥川と云う人は久米より頭のきくと云う風の人で、正直な純なとことろは少しすくない。岡信氏と佐藤功一氏の違いがあると云っていい位である。顔はかなりいい方だが、凄い。
 (略)

編者注

芥川ーー芥川龍之介。作家。一八九二年ー一九二七年。

 また、3冊刊行された分離派建築会の作品集(大正9、10、13年)は岩波書店から刊行された。百合子の最初の夫である荒木茂の『ペルシヤ文学史考』(大正11年5月)も岩波書店から刊行されている。

(大正10年)
 11月23日 (水曜)
 (略)
 夕方六時頃、岩波茂雄氏来訪。「ペルシア[ママ]文学史考」出版のことに定る。非常によろこばし。
 彼の始[ママ]めての仕事がまとまると云うこと。
 (略)

 作品展の会場となった場所にも度々足を運んでいる上、個人的にもつながりがあった。大正12年6・7月の第3回作品展は、星製薬楼上で開催された。星製薬の星一も百合子もコロンビア大学で学んでいるが、ここで「コロンビア会」が開催されている。「宮本百合子とチャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス - 神保町系オタオタ日記」参照。これには、チャーチワードの助手フローレンス・ウェルスも参加した。しかも、星製薬ビルにはカフェーがあり*5、百合子はしばしばそこへ寄っている。

(大正12年)
 5月6日 (雨)
 (略)帰りに下で雨傘を買って、星による。例によって珈琲と菓子。
 (略)

 もう一つは、昭和3年9月第7回作品展が開催された三越である。頻繁に買い物に行っているほか、親戚が勤めていた。

(大正10年)
 12月31日 (土曜) 晴
 朝早めに起き、二人で三越に行き正月の菓子や吉田さんの処へ持って行くものを買う。(略)倉知*が鼻眼鏡でキッと眉間を引つめて入って来る。(略)

編者注

倉知ーー倉知誠夫。精一郎の妹貞(テイ)の夫で、のち株式会社三越取締役会長。

 しかし、残念ながら、作品展の開催された期間の日記を見ても、観覧は確認できなかった。ただ、分離派建築会の堀口捨己、瀧澤眞弓、蔵田周忠が関与した平和記念東京博覧会(大正11年3月10日~7月31日、上野公園)は観ていたようだ。

(大正11年)
 4月1日 (土曜) 晴
 第二会場を見に行く。雑ぱくさはよき趣味の欠乏に於て明に現代を示して居る。(略)
 4月6日 (木曜) 曇
 (略)三人で第一会場を見に行く。万国街が当だ。Aが気をせかせ、あまり注意せずに札を買ったので、立ったままろくに見るものも見られなかった。(略)

 平和記念東京博覧会を見たせいか、百合子は「建築の真髄が少し自分にわかって来た」(大正11年5月1日)と書いている。更に、百合子が文学や芸術の新しい波に関心を持っていたことも日記で確認できた。たとえば、農商務省商品陳列所で開催されたフランス現代美術展覧会。

(大正11年)
 5月31日 (水曜) 大雨
 (略)ひどい雨で外出は大変だが、フランス現代美術の展覧会が今日きりだと云うので出かける。(略)なかでも、ロダンの作品は、自分に深い感銘をのこし、彫刻の真、心と云うものが迫って来たように思った。胸像の中にあるスピリット。勿論ロダンの技巧はユニックには違いないが、実に心と直接な働きであると思う。実に自由にこだわらず表現する力。恐ろしく羨しい。
 (略)

 分離派建築会が影響を受けたロダンの彫刻である。また、大正9年5月30日の条に「『白樺』の十周年記念号から切抜いたドストイェフスキーの写真を正面の壁にはる」とあり、『白樺』も読んでいたようだ。父親との関係もあってか、国民美術協会の展覧会も観ている。

(大正5年)
 3月3日 (金曜)
 国民美術協会*の展覧会へ行く。
 石井柏亭さんの扇面はりまぜの屏風と、青楓さんの二折屏風が図案としてはよかった。
 (略)

編者注

国民美術協会ーー一九一三年三月、森鴎外黒田清輝岩村透等によって創立された。六月、中條精一郎が会頭にえらばれ、一九一九年改選の際会頭は黒田清輝となる。黒田清輝が亡くなったあと、一九二四年ー一九三三年まで中條精一郎が再び会頭をつとめている。

 分離派建築会の作品展が開催された時期は、百合子にとって激動の時期であった。大正8年アメリカで荒木と結婚。同年末帰国し、翌年から4年間の泥沼時代(自筆年譜)が始まる。不幸な結婚は、別居・離婚に至り、親しくなった湯浅芳子と同居、昭和2年の年末から湯浅と2人でモスクワへ旅立つこととなる。もし百合子が作品展を観ていれば建築界の新潮流にどのような感想を持ったか興味深いものがある。日記に伊東忠太に対する厳しい評価を書く百合子である。「過去建築圏」からの分離宣言をした分離派には好意的だっただろうか。

(大正6年)
 2月19日 (月曜)
 小島氏の御祝いに行く。伊東忠太氏の応接間は殆ど吃驚した位いやなところだ。彼の人達の思想がのこりなくあらわれて居るように見える。
 あんなさむい、つめたいところが応接間なのは、ほんとうにいやだ。 
(略)

*1:昭和3年9月、野上弥生子は分離派建築会第7回作品展を見たか? - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:山田守「VolumeのSymphonieとして建築を創作したい」、分離派建築会・関西分離派建築会『分離派建築会作品 第三』岩波書店大正13年

*3:追記:再度、京都国立近代美術館の展覧会を見に行ったら、第1回作品展の芳名録に精一郎の署名がありました。

*4:宮本百合子全集』26巻、27巻(岩波書店、平成15年)

*5:板垣鷹穂と阿部次郎 - 神保町系オタオタ日記」への林哲夫氏のコメントによると、最下層にカフェーがあった(宮地嘉六「群像」)