跡見花蹊の日記*1にチラホラと久米民十郎が出てきた。
(明治二十五年)
一月十日 (略)久米民之助、節子来。(略)
(明治二十六年)
四月三日 (略) 久米節子、男子分娩報来。二日午後十時也。(略)
後に霊媒派画家となる久米民十郎の誕生である。父親で皇居の二重橋の設計をした工学博士、実業家、政治家の久米民之助はWikipediaに立項されている。しかし、長男の民十郎は立項されていない。民十郎は、花蹊に可愛がられたようで、以後の日記にもたびたび登場している。
四月二十日 (略)絹本竪物鍾馗揮毫成。久米男児民十郎、初節句祝ニ贈ル。(略)
五月五日 (略)芝紅葉館ニ行。此会也、久米氏生子民十郎初節句祝宴ニ付、二時ヨリ能楽堂ニテ、久米氏橋弁慶、中 伯母ケ酒、望月之三番、外ニ梅若実始、仕舞数番。畢テ紅葉館ニテ祝宴。(略)
八月十九日 (略)来客者、久米節、民坊(略)
「民坊」と呼ばれた民十郎。大正期新興美術運動に位置づけられる個展を大正9年4月30日~5月1日に帝国ホテルで開催。残念ながら、花蹊が観覧したのかは日記では確認できない。ただ、その後の渡米の見送りはしている*2。
(大正九年)
九月二十二日 (略)久米民十郎渡米を送る。
昭和63年10月跡見学園短期大学で開催された「第10回日本エズラ・パウンド協会大会」で、角田史郎先生が「跡見家とエズラ・パウンドとの奇縁ーー久米家・久米民十郎を介して」を発表されているので、この辺りに当然言及されているはずである。論文があれば読んでみたい*3。なお、民十郎については、阪大の橋本順光先生が神智学との関係について研究されている。また、平成26年に岐阜県博物館で開催された「奇なるものへの挑戦 明治大正/異端の科学」展では、太霊道の大物シンパとして取り上げられた。