分離派建築会100年展が終わり、桜が満開となる時期がやってきました。そうした中、同展の図録『分離派建築会100年:建築は芸術か?』(朝日新聞社発行、日本写真印刷コミュニケーションズ印刷)が第62回全国カタログ展(日本印刷産業連合会ほか)で経済産業大臣賞を受賞したという嬉しい知らせが。そこで、受賞を記念して分離派建築会ネタを投入しちゃう。
芥川龍之介が第1回分離派建築会作品展を観覧していたことは、「百合子は起つ。分離派建築会作品展と宮本百合子 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。その龍之介が更に分離派建築会メンバーの山田守と関係があったことが判明した。分離派建築会作品展を観ていそうな人の日記・書簡を探っていたら、大正13年暮(推定)の木下杢太郎宛木村荘八書簡*1に山田が出てきたことから分かった。
橋の会はその後開催した、ところが、太田さんは立派の人だ 何と云つても親分肌でいゝと思ふものを、例の山田守等若手がトテモ駄目と思ふ、即己がやつたデザインは矢張りどこ迄も守り立てたい一途の腹だ。貴説はわかります、よくわかりますーーだが私は・・・・・・と云ふのだからとても駄目だ、却つて論のある男より愚頑でやり切れない あれでは結句駄目である。
それに当夜内田ロアンが来たがその愚なる事話にならず大ひに弱る、切角の駒形橋の馬等も今更流れさうな形勢、あれでは万事まとまらない、江戸橋など何だかわけがわからず元のまゝになりさうだ
(略)
又何れ再会もあらうが一寸脈がうすい。
杢太郎(本名太田正雄)というと、「パンの会」が著名だが、「橋の会」は知らなかった。「橋の会」は、内務省復興局土木部長だった次兄太田円三(1881-1926)の関係で集まったもので、これに芥川も参加していた。前記書簡中の「太田さん」が円三だろう。杢太郎の「芥川龍之介君」*2によれば、
(略)「橋の会」といふ名で日本橋辺の飯屋で復興局にゐた僕の兄ーーその時多分、田中豊氏も居られたらうと思ふーー技術家の方にはなほ山田守氏が見えた。こちらは小杉未醒君、木村荘八君、芥川君と僕とである。(略)僕も東京の市街を立派にすることなら、専門違の事ながら出来るだけ骨を折つて見たいと思つた。(略)橋の形などに関しても復興局の技術家は美術家の意見を聞きたがつてゐた。(略)
その時、尤も進歩的な頭を持つてゐたわかい建築家の山田氏と橋の欄間の意匠の事などで議論したことがあつた。山田氏は謂はば途方も無く大きな硯といつたやうな形をした住宅のデツサンなどを持つて来て見せた。その時然し芥川君は橋の問題には少しも口を出さなかつた。(略)
荘八や未醒のような美術家が「橋の会」に参加するのは分かるが、龍之介が参加したのは元々分離派建築会と繋がりがあったからだろうか。しかし、龍之介はあまり積極的な活動はしなかったようだ。一方、「尤も進歩的な頭を持つてゐた」山田は、永代橋(大正15年)や聖橋(昭和2年)のデザインに関与することとなる。なお、円三は、大正15年3月過労や疑獄事件の発生による心労により、自殺している。龍之介の自殺の1年前である。
おまけに、「ざっさくプラス」で「分離派建築会」を検索した結果を報告しておこう。12件(うち8件が戦前)で、最も古いのは『美術写真画報』大正9年8月号の無記名「分離派建築会展覧会」である。国会図書館サーチでは、タイトルに「分離派建築会」を含む「記事・論文」は16件で、戦前分は龍之介と同じ大正9年7月22日に第1回分離派建築会作品展を見た岡田信一郎の「分離派建築会の展覧会を観て」『建築雑誌』大正9年9月号だけである。「ざっさくプラス」恐るべし。