神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正教養主義のシンボル『三太郎の日記』の阿部次郎に届いた第1回分離派建築会作品展の案内葉書

f:id:jyunku:20210203185658j:plain
 ようやく「分離派建築会」に言及した日記を発見。大正教養主義のシンボルとも言うべき『三太郎の日記』の著者阿部次郎の日記である。

(大正九年)
 七月十日(土)
 今日朝から午後にかけて太陽の論文をかきしが日暮より又ぐれてしまひ、文章規範をひろひ読みして漢文も中中よいと思ふ、/来書ーー九鬼、分離派建築会、鈴木三重吉、中目尚義「著作評論」(略)

 第1回分離派建築会作品展は、この月の18日~22日に白木屋で開催された。日記中の来書は、おそらく作品展の案内葉書だろう。現在京都国立近代美術館で開催中の「分離派建築会100年 建築は芸術か?|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto」(以下「展覧会」という)には第3回作品展(大正12年6月30日~7月5日、星製薬楼上)*1の案内葉書が展示されている。第1回の案内葉書はどこかに残っているだろうか。
 案内葉書を貰ったと思われる阿部だが、日記を確認する限りでは、第1回も含めて昭和3年の第7回作品展までどれも観覧の確認はできなかった。案内葉書を送った又は紹介したと思われる第一候補者は、岩波茂雄である。阿部と岩波は、第一高等学校の同級生*2で、『合本三太郎の日記』(大正7年6月)などが岩波書店から刊行されている。そして、『分離派建築会宣言と作品』(大正9年7月)も岩波書店から刊行されているのである。
 阿部と分離派建築会を繋ぐ人物は、他にもいる。芥川龍之介が第1回作品展を観ていたことは、展覧会に出品されている芳名録で確認できる。阿部は、作品展が開催されたその大正9年7月に芥川に会っている。

(大正九年)
 七月三十一日(土) 美学五百、日記三百検印。
 (略)午後一時帰宅、途中で後藤末雄芥川龍之介小島政次[二]郎等にあふ。(略)

[ ]内は、編者の注

 もう一人は、板垣鷹穂である。阿部と板垣が親しかったことは、「阿部次郎と板垣鷹穂の関係 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したことがある。2人で第3回作品展が開催される星製薬ビルの喫茶店にも行っている。

 (大正十年)
 三月四日(金) 米井若主人及村田文学士初対面。
 (略)丸善に行きて大井に贈る絵の本をさがし板垣村田等と一緒に星製薬で茶をのんで四時帰る(略)

 板垣と分離派建築会の関係はよく分からないが、最後の作品展が開かれた4年後の昭和7年に板垣と分離派建築会の堀口捨己の共編で『建築様式論叢』(六文館)*3が刊行され、メンバーの瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、蔵田周忠らが再び集まっている。
 阿部は、しばしば美術展に行っている。例えば、大正9年10月31日には「白木屋の国画創作協会」を観ている。白木屋や星製薬で開催された分離派建築会作品展を観ていなかったとすれば、残念なことである。田路貴浩京大教授は、展覧会の図録所収の「分離派建築会ーーモダニズム建築への問題群」で次のように述べている。

(略)教養主義のバイブル的存在であった阿部次郎の『三太郎の日記』が学生たちに愛読されていた時代である。世界の諸学芸を学び、理想の自己に向かって研鑽を積む学生たちも多くいた。そうした時代の申し子であった分離派建築会メンバーたちも、自己を賭けた創作のために、学識を広げ、感性を磨き、人格の陶冶に努めた。彼らは新しい作品の「創作」に励んだ。

 まさしくその阿部に第1回分離派建築会作品展の案内葉書が届いていたと知ったら、田路先生は驚くだろうか。
f:id:jyunku:20201225112038j:plain