京都国立近代美術館で「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」、好評開催中。展示物や映像には、何度か驚かされた。その1つが、大正9年7月白木屋で開催された第1回作品展の芳名帳に芥川龍之介の名前があったことである。
展覧会の研究は、とかく史料が残る「見せる」側に偏りがちである。しかし、
天狗倶楽部のバンカラ画伯小杉未醒が描いた明治期銀座のショーウィンドー ーー人文研における竹内幸絵先生の報告を聴いてーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したシンポジウム「みることの広がり~1910-20年代の展覧体験記~」であったように「見る」側の視点も重要である。ただ、院展や文展のように著名な展覧会であれば、観覧に行った文学者等の日記から比較的容易に見つけられるものの、一般的には見つかりにくいだろう。それでも、「浪江虔の弟板谷敞もアジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会を見ていた - 神保町系オタオタ日記」で紹介した「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(昭和17年)のように多数の日記中から発見できる例もあるので、調べてみる甲斐はあるだろう。
さて、分離派建築会の作品展の場合はどうか。結論から言うと、まだ見つけてはいない。開催場所が白木屋や三越など普通の人が行く場所が多かったので、見つけられそうではあるが、中々見つからないものである。取りあえず、昭和3年9月16日から20日まで三越で開催された最後の作品展、第7回作品展を見た可能性がなくもない人物はいた。野上弥生子である。日記*1昭和3年9月17日の条によると、
(昭和三年九月)
十七日(略)
雨がふるけれども母上の土産ものを買ふために車にて外出。三越に行くまでに宮城のまはりを一と廻りさせる。(略)
三越にては田舎への土産もの、なりたけ金がかゝらなくてみんなのよろこびさうなものをと探すのだから骨折りである。三十余円を費す。(略)
野上と母親が、会期中に三越へ買い物に行っている。しかし、作品展を見たという記述はない。見た可能性はゼロではないが、おそらくは見てないのだろう。残念。このほか、喜多村緑郎も同月三越に2回行っている*2が、どちらも会期中ではなく、これも残念。引き続き探索してみたい。