オカルトネタが好きだと猫猫先生に低学歴者扱いされてしまいそうだが、今回は広い意味でのオカルト路線。
大正5年7月11日三渓園滞在中のタゴールを訪問した武田豊四郎、中桐確太郎、北昤吉*1。この三名は早稲田大学の教師であったが、同年9月29日付読売新聞によると、「オカルト教師」と呼ぶべき存在だったようだ。同紙の「現実の上に 早稲田辺の新傾向=心霊研究の走り 教授学生達の顔=」によると、当時、難しく言えば反現実的、砕いて言えば迷信、狐憑きとも言うべき傾向が流行しており、何事にも「走り」を追う早稲田の学生達の間にそうした傾向が著しく迎えられているという。そして、
その本家本元は何と言つても哲学科や文学科で、早稲田心霊協会と云ふ心霊融合、冥界弘通の研究会さへ設けられ、サイキツク・リサーチと云つた様な言葉が今更のやうに口々に上つてゐる、先生方の肝煎りは印哲の武田豊四郎さん、宗教学の中桐確太郎さん、欧州哲学の北昤吉さんなどで、別けても、武田豊四郎さんは印度哲学会の会頭とあつて、校内で印度の古聖者のお祭をやるやら、九州辺りから風のやうに上京して来たその法力牛馬犬猫にも及ぶと云つた行者を例会に招いたりして、学生の心を奪つたのはこの風潮の魁と云つてやからう、この頃は処も鶴巻町の裏の「底の社会」の中にあつて、敷流しの蒲団の上に結迦趺坐し、虫の食つた経文を片手に若い「通心」の開眼に力めてゐる、中桐確太郎さんは故綱島梁川の見神論一点張り、北昤吉さんは釈宗活師の高足とあつて予科十二番の大教室へ宗活師を導いて来て、「十牛之図」の提唱会を開き、大いに時流に投じた人、今では戸塚の草深い宿にあつて気合術に神下しに、禅に、行くところとして可ならざる無しと云つた風である。
彼らに導かれた学生達は、巣鴨の至誠殿、九段の心霊会、本所緑町の狐使いの女神様を訪問したり、狐を使って試験問題の予知を試みたりしたという。
この後、武田、北の二人は、国家主義方面に転じ、昭和4年3月祖国同志会(のち祖国会)を結成*2。北は、戦後、「祖国*3編輯人」を理由として公職追放となる。