神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2007-04-01から1ヶ月間の記事一覧

親バカとしての岩波茂雄(その2)

その後半年以上進展は見られないが、翌年6月以降事態が動き出した。 昭和7年 6月11日 帰宅の旨を知らせると小林と小百合さんとで来た。京城のアベさん*1に彼女より手紙を出して、非常手段のやむなきを訴えたところ、それも致し方なからんと云つて来たので、…

親バカとしての岩波茂雄

岩波文庫創刊の謎を探るべく野上彌生子の日記*1を見る。 昭和2年5月31日 岩波書店の小林さん来訪。今度レクラムを学んで出すチープセリーズの件につきて。私の伝説の時代を入れることにする。 昭和2年6月27日 伝説時代*2を岩波文庫に入れるために春陽堂にも…

本郷館に一時期住んでいた三木清

小島威彦の『百年目にあけた玉手箱』第1巻によると、昭和2年1月のこととして 三木は本郷三丁目の近くの本郷館に落ちつくことにしたので、僕は牛込の左近司の家から乗換えなしで行ける。 と書いている。また、 そして三月中旬には東京に引き揚げ、左近司から…

いつまで存在した「代謄写」?

これも「書物蔵」を見て覚えた言葉。「代謄写」。 『天羽英二日記・資料集』第5巻で見かけた。 昭和21年3月9日 時事通信社本年2月代謄写「輿論調査の方法The Pulse of Democracyを読む 大したことはないか大平に入用方勧める 天羽*1は当時戦犯容疑者として…

宮本常一と志智嘉九郎

「書物蔵」で見かけた名前を宮本常一の日記*1で発見! 昭和25年10月24日 神戸までゆき、図書館に志智嘉九郎氏をとう。郡家出身の人。古文書を拝借するため・・・。快く貸して下さることになる。 書物奉行氏によると、志智は昭和23年1月から神戸市立図書館長…

宮本常一も寄り道していた小川書店

小川書店には、宮本常一も寄ったことがあったようだ。 宮本の日記によると、 昭和23年1月15日 市電市川橋で下車して小川書店へ寄る。柳田先生の『地名の研究』が出ているので買う。ほしい本もあるけれど高くて手が出ぬ。

岡本綺堂と小川書店

柳田國男と小川書店については、昨年の10月15日に言及したけれど、小川書店は岡本綺堂の日記にも登場してた。 大正12年12月3日 午後、十番を散歩。古河[ママ]橋の小川書店に立寄つて、古本八冊を買つてくる。大正12年12月15日 帰途、古河[ママ]橋の小川書店…

古本屋はなぜ潰れないのか?

山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな』(光文社新書)を見る。 「古本屋はなぜ潰れないのか?」という一節があった。 ブックオフでのセドリの話まで出てくる。潰れない理由の解答は自分で立ち読みするか、購入して確認して。

オタ心をくすぐるヘンリー・ダーガー展

kumtinさんの「ことばの壁を乗り越えて]」4月22日分で知ったヘンリー・ダーガー展。7月16日まで原美術館(品川)で開催。 ヘンリー・ダーガーという人は、不勉強で知らなかったが、『美術手帖』5月号でも特集。 かつて東京ステーションギャラリーで展覧会の…

宮本常一が愛した南田辺の「ベルグ書房」

宮本常一お気に入りの古本屋があったようだ。 宮本の日記によると、 昭和20年1月6日 大阪へかへり南田辺のベルク[ママ]へよつて見るとロシヤの小説集などなつかしいものが出てゐる。この本屋にはよいものがよく出る。思ひきつて小説類など沢山買ふ。 昭和20…

国立公文書館「「写真週報」にみる昭和の世相」展

国立公文書館アジア歴史資料センターでインターネットによる「「写真週報」にみる昭和の世相」展」が今日から開始。 「写真週報」は、昭和13年2月から20年7月まで内閣情報部(のち情報局)により刊行された週刊のグラフ雑誌。ありがたや。 「情報局」…

食養会と関根喜太郎(関根康喜)

関根と食養会の関係については昨年5月25日に言及したところであるが、『右翼事典』(双葉社)の巻末の「右翼・民族派運動年表」に謎の記述がある。明治40年の欄に月日不明として「食養会(関根唐喜)」と。 桜澤如一『石塚左玄』の「年譜」によれば、明治…

『ドグラ・マグラ』の校正をしていた柳田泉

『夢野久作の日記』によると、 昭和10年1月10日 十二時春秋社へ行き、鈴木氏享[ママ]氏、柳田氏、喜多氏、神田父子に会ひドク[ママ]ラマグラ記念会の相談をする。後大下宇陀児君の処へ行き又相談。水谷準、乾信一郎君と会ひ夕食の御馳走になる。 昭和10年1月…

関根喜太郎と斎藤昌三

斎藤昌三の『東亜軟書考』(星光書院*1、昭和23年1月)の昭和22年6月26日付け「自序」によると、 「昨今問題の性関係号を如何に取扱ふべきか、過去の性関係の著書は如何に取扱はれたか、S君は此の問題について文献的検討をせよといふ」とある。この「S君」は…

彌次将軍吉岡信敬墜つ!

生方敏郎の個人雑誌『古人今人』第51号(昭和15年11月20日発行)によると、 吉岡信敬君は、急性肺炎のため十二月七日夜溘然として長逝せられ十日午后大塚仲町高源院に於て盛んなる告別式を営まれた。謹んで弔意を表す。君は早大文科卒業すでに学生時代より明…

関根喜太郎と星光書院再び

関根喜太郎については、昨年の6月23日に言及したけれど、再びネタにしてみよう。 金沢文圃閣の『戦後初期の出版社と文化人一覧』第4巻の「出版関係者人物索引」を使ってみる。 これによると、関根喜太郎が代表者を務める「文教出版」「火星社」の住所が…

その時歴史が動いた−岩波文庫の誕生−

今年は、岩波文庫が創刊されて八十周年の年。 何と、岩波文庫の誕生にあのトンデモない人が関与していたかもしれないことが判明した。 翌日、僕は卒論執筆中の二、三の質問をもって、三木の下宿*1を訪ねた。(略)「小島君、日本でレクラム版を出そうじゃな…

大槻憲二の東京精神分析学研究所

『戦時下日本文化団体事典』第3巻(大空社、1970年7月。底本:『日本文化団体年鑑 昭和十八年版』)に、 東京精神分析学研究所 所在地 東京都本郷区駒込動坂町三二七 役員 所長大槻憲二、編集部員岩倉具栄、長崎文治 組織 会員組織(内部課−研究、講習、治…

三角寛に提供された『ウエツフミ』の出所

田中勝也『倭と山窩』(新國民社、昭和52年10月)によると、 因みに、三角氏と『上記』との関係についてであるが、三角氏は戦後の昭和二十年代に氏と同郷の彫刻の大家である朝倉文夫氏から面白いから読めといわれて、『上記』を提供されたという。これは、三…

忘れられた谷崎潤一郎と志賀直哉の出会い

猫猫先生こと、小谷野敦氏の「売春の日本史」(『考える人』連載)が終了。最終回には、 谷崎潤一郎はもっと早く、二十歳で一高の級友に吉原へ連れて行かれ、初めて女を知ったらしい。となると明治三十八年くらいなので、吉原歴は志賀より三歳年少の谷崎のほ…

フルホン王子(別名セドリーマン)の行動を予測(その2)

5月4日〜6日までオールデイズクラブ(名古屋古書会館)というのもあった。 でも、入れようがないね・・・

諸岡存と夢野久作(その2)

『夢野久作の日記』(葦書房、昭和51年9月)によると、 昭和10年1月26日 大坂ビル。レインボーグリルに於てドクラマグラ発刊記念会。探偵小説作家。書店、画家。余の親戚関系[ママ]許五十余名。(略)テーブルスピーチ如次。(略)諸岡存(阿呆陀羅経否定*1…

フルホン王子(別名セドリーマン)の行動を予測(笑

4月27日 書窓展(東京古書会館) 28日 好書会(西部古書会館) 29日 一箱古本市(不忍通り) 30日 春の大古本祭(大阪市・四天王寺。最終日だが)に出現 5月 1日 春の古書大即売会(京都市・みやこめっせ)に出現 4日 ぐろりや会(東京古書会館…

平泉澄と731部隊長石井四郎

神がかり学者の平泉澄の評伝、若井敏明『平泉澄 み国のために我つくさなむ』(ミネルヴァ書房、2006年4月)によると、 なお、航空機でのアメリカ空襲以外に、さらに平泉が必勝の方策として期待したのが化学兵器で、この分野を管轄していたのが四高で平泉と同…

SF黄金期は健在

星新一、光瀬龍、半村良はすでに亡い。小松左京*1、筒井康隆*2、横田順彌*3は健在。 豊田有恒は島根県立大学教授、眉村卓は大阪芸術大学教授。 平井和正はどうしたと思ったら、公式サイトがあり、健在みたいだね。 *1:『小松左京全集完全版』を刊行中。 *2:…

もう幾つ寝ると「青空古本市」

森見登美彦『四畳半神話体系』(太田出版、2005年1月)から。 あれは一年前の夏の下鴨納涼古本市だった。(略) 木漏れ日の中でラムネを飲んで、夏の風情を心ゆくまで味わったあと、両側に連なる古本屋の出店を冷やかしながら歩いていった。どこに目をやって…

諸岡存と夢野久作

諸岡存って、夢野久作が九州日報記者時代(大正8年4月〜13年3月)、九大医学部に出入りして、特に親しかった精神科助教授だった。*1『ドグラ・マグラ』は実は未読だけど、夢野の研究書は何冊も読んでいる。でも、記憶になかったよ。 森洋介氏は気づいていた…

萬朝報社婦人部長だったトンデモ系女性

オッサンばかりのトンデモ世界の住民。それでもわずかに女性がいる。 キリスト日本渡来説にはまった山根菊子(本名キク)もその一人。 彼女の経歴は興味深い。『日本女性人名辞典 普及版』によると、 明治26.6.1〜没年不詳*1 明治・大正期のジャーナリスト。…

諸岡存、時代遅レナリ!

とあるトンデモない日記(公刊されている)を発見。諸岡存や、あの人もこの人も出てきた。全貌を調査中。 とりあえず、誰ぞの好きな諸岡存をアップ。 昭和18年5月12日 諸岡八時ニ来訪、ユダヤ禍排撃同志会規約案ヲ持チ来リ、予ニ后援ヲ乞フ。四王天、白鳥、…

皇道世界政治研究所と藤澤親雄

古賀政男の弟治朗が皇道世界政治研究所を主宰していたというのは、確認できない。 昭和17年6月に設立された同研究所の当初の「責任提唱」者は、鵜澤總明、林銑十郎、中島今朝吾、白鳥敏夫、藤澤親雄の5名。しかし、本人の弁によると藤澤は直ぐに脱退したら…