神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

皇道世界政治研究所と藤澤親雄

古賀政男の弟治朗が皇道世界政治研究所を主宰していたというのは、確認できない。
昭和17年6月に設立された同研究所の当初の「責任提唱」者は、鵜澤總明、林銑十郎、中島今朝吾、白鳥敏夫藤澤親雄の5名。しかし、本人の弁によると藤澤は直ぐに脱退したらしい。
昭和18年7月26日に開かれた座談会(「偽史を攘ふ−太古文献論争−」)で島田春雄につるし上げられた藤澤は、次のように弁明している。

藤澤 (略)私はつい人がいいところがあるといふのか、白鳥敏夫とか、或は林銑十郎、或は鵜澤聡明、中島今朝吾といふやうな人と一緒になつて、さういふ人と国策提唱者といふ形で皇道世界政治研究所といふものの設立に名前を連ねたわけです。ところがこれは私が不注意であつたので、あれを実際動かしてゐる人はどうも意図があまり真面目でないやうに思はれるのですね。(略)
島田 あの原案を誰が作つたのですか。
藤澤 やはり竹内文書に非常に熱心な人が作つた。さうしてあれは竹内文書などが非常に金科玉条になつてゐるのですよ。そこでさつきいつたやうな僕の心境から、これはいかぬ、かういふものに関係してをつたなら、僕は真意を疑はれるし、脱退するといつて脱退したので、僕は関係ないのです。
島田 去年のいつ頃です。
(略)
藤澤 それは去年の十一月です。
島田 それを公にされましたか。
藤澤 それはしてゐない。
島田 ぜひなさつて戴きたい。
藤澤 こゝで発表してもいゝのです。