神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

忘れられた谷崎潤一郎と志賀直哉の出会い


猫猫先生こと、小谷野敦氏の「売春の日本史」(『考える人』連載)が終了。最終回には、

谷崎潤一郎はもっと早く、二十歳で一高の級友に吉原へ連れて行かれ、初めて女を知ったらしい。となると明治三十八年くらいなので、吉原歴は志賀より三歳年少の谷崎のほうが古いことになる。大正六年の三月、谷崎が、吉井勇、長田秀雄と吉原に遊んだことが、短編「詩人のわかれ」に書いてある。


とある。小谷野氏は遠慮してか、書いておられないが、谷崎の談話筆記「學校時代」(『文藝雑誌』創刊号、大正5年4月1日発行*1)によると、

私が一番初めに小説のやうなものを書いたのは高等学校の二年の時です。(略)
その頃恋をしました。そんな事が原因になつて、二年から三年にかけて怠け出しました。そして種々な遊びも覚えました、勿論書生の事ですから精々淫売買位の所でしたが、到頭三年の時梅毒になつて、まだ六〇六号の出来ない時分ですし、こつそり直して仕舞はうと随分苦心したものです。


というから、明治40年頃に梅毒に罹患したことになる。


さて、谷崎と志賀の出会いであるが、お互いに言及したことはないと思われる。
従来の谷崎の研究書では、触れられていないと思われるが、志賀の日記によると、

明治43年12月22日 夜伊吾と鴻の巣に行き吉井勇と谷崎に会ふ。


明治44年6月1日 夜、谷崎の少年といふ小説を見る、変はつてはゐたが、同情はない、然し面白かつた。


とある。「伊吾」は里見紝(本名山内英夫)の雅号。
林哲夫『喫茶店の時代』によると、「メイゾン・鴻ノ巣」は明治41年開業、『スバル』『白樺』の若き文学者たちが始終出入りしていたという。谷崎、志賀、里見、吉井の4名、この晩はいったいどんな文学談義をしたのだろうか。


(参考)明治43年11月20日開催の「パンの大会」には、志賀は行かなかったと日記に書いているので、同日大会に出席していた谷崎との出会いはなかった。同年12月22日の日記の書きぶりだと、初対面ではない感じがするが、同日が今のところ確認できる谷崎と志賀の最初の出会いである。

*1:『資料谷崎潤一郎』(桜楓社、昭和55年7月)