小島威彦の『百年目にあけた玉手箱』第1巻によると、昭和2年1月のこととして
と書いている。また、
そして三月中旬には東京に引き揚げ、左近司から独立して、本郷の三木の下宿の近くに居を定めた。東大正門前の「万藤」の路地から入ったところである。
と書いている。
三木の東京での住まいについては、年譜(『三木清全集』第20巻、岩波書店、1986年3月)によると、
昭和2年 30歳 法政大学教授を委嘱され、京都第三高等学校の教職を辞して上京、同大学文学部哲学科主任教授となり、日本大学および大正大学の講師をも兼任した。
同時に岩波書店へも定期的に出向き編集に協力することになった。下宿を本郷菊富士ホテルに定めた。
7月 岩波書店の編集に協力することになってから、出版の計画、著書の選定についても助言し、広告や宣伝の文章をも多く書くことになったが、その発案になる最初の大きい計画は「岩波文庫」の刊行であり、これが、この月の十日に創刊、第一回として三十一点が発行された。(略)あの「発刊に際して」の文章は、その草案に基づいて成ったものである。
また、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)によれば、三木は昭和2年4月以降菊富士ホテルに下宿していたとされている。
三木が此頃参りましたから可なりつき込んでかれの為に話した
法政の方はもはやだめでせうか 誰にか後が定まりましたでせうか 私からだと云はずに河野にでも聞いて見て下さいますまいか
とあり、また、同じく西田の昭和2年1月11日付け田辺元宛書簡には
けふ三木が来て東京行を決心し既に河野に電報にて問合わせ 先方が尚定まつてゐないさうだから数日中に東京に行き万事を決定し来ると云ひます とにかくあざやかに決心した様です
とあるので、4月より前に東京に一時期住んでいたと思われる。だから、小島が言う本郷館に一時期住んでいた可能性はある。
この三木清が住んだことがあるかもしれない本郷館て、最近その取壊しが話題になっている名物建築みたいだね。はてなのキーワードにもなっている。
(参考)西田幾多郎の日記では、
昭和2年1月11日 三木来る 東京行に決心せりといふ
昭和2年3月28日 朝永君を訪ふ 三木君来る東京へ出立するといふ
昭和2年7月3日 三木来訪
昭和4年1月4日 小島威雄[原注:彦]来る