
大正期から昭和戦前期にかけて大阪で雑誌『雑草苑』などを刊行した池田威という人物がいた。富士正晴『竹内勝太郎の形成』(未来社、昭和52年1月)には、昭和6年8月6日消印の竹内宛石橋和書簡と同月30日付け竹内宛池田書簡などが載っている*1。富士は、石橋と池田は同一人物とし、後者の封筒が朝日会館のものであることから、池田は朝日会館勤務の大阪朝日新聞記者であろうとした。しかし、その記述に続いて「〔石橋は池田のペンネーム[。]『雑草苑』『演劇ウイークリー』など出し、朝日の企画部長と組んで狂言研究会をやった。朝日の記者ではなくて、阪急にいたらしい。ーー天野隆一〕」とある。雑誌への連載後単行本化に際して富士が天野から聞いたことを付記したと思われる。
この池田宛の書簡群を古書鎌田から入手している。大量過ぎて解読・分析は前途多難だが、石橋和は脚本家としてのペンネームで、プラトン社*2、アジャンタ社*3やエラン・ヴィタール小劇場*4と関係があったこと、書簡には牛島軍平*5、北村兼子*6、伊達俊光*7や南木芳太郎からの物も含まれることが判明している。今回は、とりあえず書簡群の中に封筒無しで混じっていた『未乾エツチング頒布趣意』を紹介しておこう。なお、池田宛船川未乾葉書(昭和3年1月18日付け)が別に1枚ある。
このリーフレットには、船川未乾名義の「エツチング頒布趣意」のほか、エッチングの内容が紹介され、申込用の葉書も付いている。エッチングは、1部(3枚)30円で大正15年10月以後毎月1枚送付するとある。
未乾については、年譜*8も作成された丹尾安典氏による「未乾素描」が『一寸』(書痴同人)第56号~第66号に連載された。このうち「未乾素描(7)」は、大正15年11月20日消印の明石国石(号染人)*9宛書簡と、同じ頃に書かれたと思われる竹内宛書簡を紹介している。前者には、「先日来は小生エツチング会の事で色々とお世話に相成」「今日自作エツチング三葉薄謝のしるしに御送附」などと記載されている。後者には、「エツチング頒布会の事で又少し考へなほした。少し不安になつて来たので二三日発表を見合わせてほしい」などとある。丹尾氏は、これらにより頒布会が実際に開かれたかどうかは不明だが計画されたことだけは確かとしている。
これに補足すれば、富士著274頁に同月2日付け明石の竹内宛書簡が引用され、「過日は船川君から立派な力のこもつたエッチング恵与されて小生ハ非常に恐縮に存じ居候/出来ることならこれは「恵送」にされずエッチングの会員になつて、会費を取り立てゝもらいたい」云々とある。更に前記リーフレットに「作品は大正十五年十月以後毎月一枚宛送附」とあることと合わせると、エッチング頒布会はスタートしていたと解釈することもできる。ただし、「エッチング頒布趣意」の末尾には「 年 月 日」とあるものの数字の部分が空白であるし、竹内宛書簡に「二三日発表を見合わせてほしい」とあることをエッチング頒布会開始の発表見合わせと解すれば、入手したリーフレットは没になったと見ることもできる。引き続き調査を続けてみたい。
『一寸』については、『北方人』の主宰者盛厚三氏の御好意で読むことができました。記して厚く感謝いたします。
参考:船川未乾については、林哲夫氏の「船川未乾君の装幀 : daily-sumus2」もある。
*1:『富士正晴資料目録V:書簡(竹内勝太郎関係)編』(富士正晴記念館、平成8年3月)には、大正14年12月16日~昭和7年8月16日差出分の竹内宛池田書簡38通のリストがある。
*2:「大正モダニズム下のプラトン社を描く永美太郎『エコール・ド・プラトーン』 - 神保町系オタオタ日記」参照
*3:「大正期に『江原小弥太個人雑誌』と『橋富光雄個人雑誌』の表紙を描いたマヴォイスト牧寿雄 - 神保町系オタオタ日記」参照
*4:「中原中也が通った京都のカフェーとエラン・ヴィタール小劇場 - 神保町系オタオタ日記」参照
*5:「館界では名を残さなかったが、折口信夫学に名を残した拓殖大学図書館員牛島軍平 - 神保町系オタオタ日記」参照
*6:「『柳屋』に登場する北村兼子と井上芳子「『美術と文芸』・『柳屋』について」への補足 - 神保町系オタオタ日記」参照
*7:「伊達俊光の大阪文化女塾の創立と終焉ーー本野精吾や田代善太郎が講義ーー - 神保町系オタオタ日記」参照
*8:『一寸』第66号(書痴同人、平成28年5月)の丹尾安典「未乾素描(11)」に「船川未乾年譜」掲載
*9:「古書あじあ號から後藤捷一編『早苗田:歌集』(昭和13年)をーー後藤捷一、明石染人と南木芳太郎ーー - 神保町系オタオタ日記」参照