神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

遠藤純先生が追いかける高尾亮雄と尾関岩二『童心芸術概論』刊行記念歓談会


 昨年10月3日京都新聞に戦前関西の児童文化の礎を築いた高尾亮雄(たかおあきお)に関する記事(行司千絵記者)が載った。武庫川女子大准教授の遠藤純先生が高尾の出自を紐解く論文を書いた。しかし、遺族への連絡先や生没年月日、家族構成など分からないことが多く、情報提供を求めるというものであった。
 「船川未乾の『エツチング頒布趣意』ー丹尾安典「未乾素描(7)」『一寸』62号への補足ー - 神保町系オタオタ日記」で言及した池田威宛書簡群には、中之島2丁目の芸術教育協会内児童研究室の池田宛書簡が複数あって、池田も大阪の児童文化に関わっていたようだ。その関係かどうか、書簡群の中に高尾が大阪朝日新聞社計画部に勤めていた昭和3年12月31日消印の書簡が含まれている。
 今回はその書簡ではなく、昭和7年10月3日消印の葉書(往復葉書の往信用)に高尾が出てくるので、それを紹介しておこう。尾関岩二『童心芸術概論』と『対話、童話劇、マリオネツト』*1が文化書房から上梓されたので、西日本文芸協会、六月会等の有志による歓談会を開催するという内容である。往復葉書の返信用は出欠の確認で池田が投函したと思われ、残っていない。
 歓談会は10月9日大阪天満橋畔の野田屋で開催予定、発起人は次のとおりである。

富田砕花 渡辺均 高谷伸 高尾亮雄 竹内勝太郎 高瀬嘉男 土屋充 南江二郎 村井武生 小坂常雄 榊原紫峰 薄田泣菫

 高尾と竹内の関わりについては、前記エントリーでも使った富士正晴『竹内勝太郎の形成:手紙を読む』(未来社、昭和52年1月)の人名索引を見ると、高尾が5箇所にわたって登場している。そのうちの昭和6年10月3日消印の高尾・池田連名による書簡は、「狂言研究会規約」の余白に書かれている。規約によると、評議員は成瀬無極(本名成瀬清)、島文次郎新村出、高安六郎(高安吸江の本名)らで、高尾は庶務、石橋和(池田の筆名)・笹野堅・竹内が編輯、河村重一・土屋が会計であった。高尾と池田が親しかったことが分かる*2
 富士著には、前記西日本文芸協会から竹内宛昭和6年10月7日消印の書簡も載っていて、役員は次のとおりである。

西日本文芸協会
評議員 林久男、豊岡佐一郎、大西利夫、坪内士行、成瀬無極、中山徳重、南江二郎、野渕昶*3山本修二、菅原英次郎、高安吸江、高谷伸、山田一夫*4、木谷蓬吟
常務幹事 豊岡佐一郎、中山徳重、南江二郎、菅原英次郎、高谷伸
会計 堀部周三郎、南江二郎、高谷伸

 竹内は会員で、他に堂本寒星、竹内逸、園頼三、小林政治(小林天眠の本名)、明石染人らも会員であった。
 家蔵の池田宛書簡群の中には、歓談会の発起人や狂言研究会・西日本文芸協会の役員からの書簡も含まれているので、それらを分析すれば、高尾を含めた関西の文化人のネットワークが見えてくるだろう。以上、些細な情報ではあるが、遠藤先生に届きますように。

*1:正しくは、『対話・児童劇・マリオネツト』(文化書房、昭和6年11月)

*2:富士正晴『竹内勝太郎の形成』掲載の昭和7年4月27日付け池田威の竹内宛書簡にも、池田が発行していた『演芸ウヰークリー』休刊に関連して高尾の名前が出てくる。

*3:新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:昭和6年11月に『夢を孕む女』(白水社)を刊行する山田一夫か。