神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

館界では名を残さなかったが、折口信夫学に名を残した拓殖大学図書館員牛島軍平


 『青野季吉日記』(河出書房新社、昭和39年7月)昭和20年1月29日の条に、拓殖大学図書館員だった牛島軍平らしき人が出てくる。これは、「拓殖大学図書館員牛島軍平 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。牛島は、館界には足跡を残しておらず、『図書館人物事典』(日外アソシエーツ、平成29年9月)にも立項されていない。
 しかし、折口信夫の研究者には、よく知られた存在だった。青山大五・石内徹・馬渡憲三郎編『迢空・折口信夫事典』(勉誠出版、平成12年2月)に、松本博明氏により立項されている。それによれば、明治29年2月4日大阪生、平成6年7月10日没である。折口の門下生としての経歴・人物像については、傘寿記念に刊行された前川幸雄編『ここにも一人門弟子が:折口信夫と牛島軍平』(フェニックス出版、昭和53年4月)により詳しい。そこで、同書の大藤時彦「牛島軍平さんのこと」から引用しておこう。

(略)柳田国男先生の「郷土研究」が休刊して間もなく折口信夫先生が「土俗と伝説」という雑誌を発刊された。その雑誌の編集発行人として東京市小石川区竹早町の牛島軍平の名が奥付けにしるされていた。(略)昭和四年「民俗学」という雑誌が発行された。(略)牛島さんは(略)「沖縄の年中行事[」]を連載された。(略)
 さて私が牛島さんと親しく接するようになったのは、折口信夫先生の全集を刊行することになったときである。(略)第十六巻に折口先生の沖縄採訪記をのせることとなった。(略)われわれには中々読解に困難であった。そこで牛島さんにお願いしてそれを読んで頂き原稿にして貰った(略)牛島さんはこの沖縄採訪記ばかりでなく、折口全集の編集を引受けられ国学院大学の事務室に通勤されたのであった。(略)

 今宮中学校以来の折口の門下生である牛島が、折口信夫学に貢献していたことがよく分かる。なお、同書の年譜によれば、牛島の拓殖大学図書館勤務は、昭和14年4月からである。そして、20年1月29日の条に「青野季吉と吉原河内楼の一室で会う」とあった。私の15年前の推測は正しかったことが判明した。
 ところで、同書収録の牛島「その時から」*1に「國學院大學講師尾崎久弥に冷たい折口信夫教授と改造社出版部長広田義夫 - 神保町系オタオタ日記」で言及した改造社の広田が出てきた。

 昭和四年四月に私が再上京して、大森のお宅でお世話になっていた時、改造社の広田さんが、改造社を退かれて、独立して出版書店をはじめられた時、広田さんに頼まれて、そこから口訳万葉集が出ることになった。(略)半分以上も進んだろうか。そのうち出版元が潰れたので、そのままになってしまった。(略)

 昭和5年3月に尾崎久彌が折口の御機嫌を損ねた?事件は、この口訳万葉集*2の関係だったかどうか。牛島の記述も混乱しているようで、改造社の広田が独立して学藝社を起こすのは、もう少し後年ではないかと思われる。

*1:初出は、『折口信夫全集第4巻』の『月報第2号』(昭和29年11月)

*2:大正5年から6年にかけて、文会堂書店から刊行した口訳万葉集の改訂と思われる。