神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

中原中也が通った京都のカフェーとエラン・ヴィタール小劇場

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 木股知史先生の「瞬間と全体ーー晶子・啄木と生命主義的発想ーー」が載った『国文学解釈と鑑賞』別冊の『「生命」で読む20世紀日本文芸』(至文堂、平成8年2月)に、鼎談「日本の近・現代文学と生命観」も掲載されている。出席者は、平岡敏夫(城西国際大学)・吉田凞生(群馬県立女子大学)・鈴木貞美(国際日本文化研究センター)である。この中に吉田の気になる発言がある。

吉田 そう言えば大正十二年に京都に「エラン・ヴィタール」という小劇団がありました。中原中也が通ったカフェーの二階を稽古場にしていました。(略)

 別件で京都にあったエラン・ヴィタール小劇場を調べているので驚いた。ただし、この内容が確認できない。カフェーのことならこの本ということで、林哲夫『喫茶店の時代:あのとき こんな店があった』(ちくま文庫、令和2年4月)299頁*1を見ると、「大正十二年(一九二三)末頃、長谷川泰子中原中也の朗読を褒めたのは河原町通りの喫茶店だった」とある*2。このカフェーの可能性があるが、店名やエラン・ヴィタール小劇場との関係は分からない。
 長谷川泰子述・村上護編『ゆきてかへらぬ:中原中也との愛』(講談社、昭和49年10月)にエラン・ヴィタール小劇場は出てこない。しかし、泰子が中也に初めて会ったのは大正12年末、京都の表現座という劇団の稽古場だったという。泰子は劇団員で「有島武郎、死とその前後」という芝居の台本を読んでいて、そこに中也が現れた。

 表現座というのは、京大の教授だった成瀬無極が主宰した新劇でした。おそらく成瀬主宰は名ばかりで、会ったことはありません。座の中心は倉田啓明さんだったようで、彼が住んでいた家が表現座の稽古場でした。私もそこに住み込んで、お芝居の練習していました。
 表現座の稽古場というのは、二階屋の一階で、昔はみなそうだったけど、表に源氏格子があって薄暗いんです。一部土間になっており、稽古場に使っていたところはあまり広くなかったと思います。
 二階は全部畳の間で、往来に面して部屋があり、それから奥にわりに広い感じの部屋がふた部屋ほどありました。そこにわれわれが寝泊まりしておりました。

 吉田は、表現座とエラン・ヴィタール小劇場を混同した可能性はある。成瀬は、新村出と共にエラン・ヴィタール小劇場の後援者でもあったのである。ただし、表現座の稽古場の建物は1階も2階もカフェーではなかったようだ。
 中也が通ったと思われるカフェーとしては、カフェー・フクヤがある。大岡昇平富永太郎:書簡を通して見た生涯と作品』(中央公論社、昭和49年9月)によると、大正13年9月1日に中也、富永太郎、冨倉徳次郎、正岡忠三郎で出町のカフェー・フクヤにおいて飲んだと正岡の日記にあるらしい。カフェー・フクヤは、林著や斎藤光『幻の「カフェー」時代:夜の京都のモダニズム』(淡交社、令和2年9月)にも出てこない。京都のカフェーには、まだまだ分からないことが多い。
 

*1:「人名索引」では、290頁になっている。

*2:出典は、大岡昇平富永太郎中原中也』(レグルス文庫,昭和50年12月)