神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

古書あじあ號から後藤捷一編『早苗田:歌集』(昭和13年)をーー後藤捷一、明石染人と南木芳太郎ーー


 今月の「たにまち月いち古書即売会」では、古書あじあ號から和本を4冊購入。古本横丁に負けじと?最近あじあ號も和本を出すようになった。ただし、古本横丁に比べると冊数は少なく均一でもない。古本横丁の方は、相変わらず業者のおじさんが段ボール箱にボンボン放り込んで買い占めていた。業者の人は節度を持って買うか、時間をずらしていただきたいものである。
 さて、あじあ號から買った和本の1冊は、後藤種太郎著・後藤捷一編『早苗田:歌集』(後藤捷一昭和13年12月)であった。本書は、染織研究者・郷土研究者の後藤が父親で徳島県名東郡国府町の元町長だった種太郎の一周忌に際し遺詠を編集したものである。400円で入手。
 本書は国会図書館に所蔵されておらず、所蔵は大阪府立中央図書館、徳島県立図書館などに限られている。後藤編『祖谷山日記』(大阪史談会、昭和37年6月)の「あとがき」で、この遺詠集の配布について触れられていた。

(略)戦前私が父の遺詠を出版した際の如き、父は生前名東郡教育会長だった関係上、郡内の小学校長と関係者とには漏れなく贈呈したが、挨拶に接したのは僅かに板東納涼氏一人であった。これは亡父の徳の欠けた点に基因するのであらうが、それなら何故そんな不徳な仁を会長に選んだのか、反問したくなってくる。またその頬かむり連の中には、女教員と桃色遊戯にふけって笠の台がとびさうになり、父の許へ助命運動に来たH校長もあって、この校長の修身教育には大きな疑問が抱かれた。(略)

 せっかく関係者に父の遺詠集を贈呈したのにほとんど反応がなく、後藤が相当怒っていたことがわかる。後藤の郷土研究者としての経歴は、「はてな」の「後藤捷一とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな」を参照。『南木芳太郎日記』(大阪市史料調査会)にも度々名前が出てくる。遺詠集を出した時期の分を引用してみよう。なお、遺詠集についての言及はなかった。

(昭和十三年)
三月十九日
(略)
後藤捷一氏紹介、梅村夏郎氏及明石国助氏へ依頼状及「上方」送る。
(略)
十一月六日
(略)
◯午後八時、浄祐寺に行き戸波少将に遇ふ。後藤君・福良氏*1旭堂南陵と話合ふ。
(略)
(昭和十四年)
三月十六日
(略)東田*2・後藤君と喫茶店に話し合ふ。東田君より印刷写真版代十四五円を受取る。(雄崎氏*3分)
(略)

 昭和13年3月19日の条の「明石国助」は、「須田国太郎や明石染人と交流のあった田中緑紅と豊ヶ丘農工学院の漢見信子 - 神保町系オタオタ日記」で言及した明石染人の本名である。後藤と明石は、共に染織関係者である。更に、後藤は、明石が田中緑紅と共に大正7年1月に創刊した『郷土趣味』(郷土趣味社)に9号、大正7年12月から寄稿している。後藤美心名義の「阿波の盆踊」である。以後も度々寄稿している。また、12号、大正8年5月によると、後藤の努力により同年5月17日大阪の天亀楼で郷土史研究会が開催され、明石、出口米吉、緑紅の講話があった。これらにより、相当昔から親しかったと思われる。
 後藤と南木は、共に大阪史談会の会員であった。『大阪史談会報』創刊号(大阪史談会事務所、昭和2年12月)の会員名簿*4に南木の名前があり、後藤は2巻1号、昭和6年5月の「新入会者」に名前がある。南木より後から大阪史談会に入会した後藤ではあるが、同号以降の編集を担当することになる。
 後藤旧蔵の染織関係以外の書籍・書簡は四国大学が所蔵していて、『四国大学蔵凌霄文庫目録』(四国女子大学、平成4年3月)の特に書簡のリストが面白い。折口信夫、笹部新太郎、沢田四郎作田中俊次(緑紅の本名)、中神天弓、肥田晧三、柳田国男南方熊楠宮本常一などからの書簡が出ている。更に、出口宛書簡として、フレデリック・スタール、熊楠、山中笑からの書簡もあり、親しかった出口の遺品を貰ったのだろうか。

*1:福良竹亭

*2:東田平三郎

*3:雄崎定一

*4:130人弱の名簿で、他には今井貫一、石割松太郎、魚澄惣五郎、宇田川文海、木谷蓬吟、鹿田文一郎、高尾彦四郎、高安六郎、玉樹安造、津田信吾、土屋元作、福良虎雄(竹亭の本名)、三宅吉之助、本山彦一などの名前がある。