神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

伊達俊光の大阪文化女塾の創立と終焉ーー本野精吾や田代善太郎が講義ーー

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 ツイン21古本フェアで入手した伊達俊光『大大阪と文化』(金尾文淵堂、昭和17年6月)については、「ツイン21古本フェアではどんだけ?こんだけ! - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。この本に出てくる伊達が昭和5年に創設した大阪文化女塾も気になる団体である。同書382頁によると、

 本塾は昔の学塾風の人格主義を基調とし、高女卒業生若くは同等の学力ある女性に対して尚一二ヶ年、新時代に即せる主婦たるべき素養を積ましむるために、先づ高女時代に詰め込まれたる種々の智能の整理、消化を計る事に努め、健全なる文学、芸術の身読鑑賞、育児衛生、看護、薬餌、営養等の家庭医学上の智識並びに現代日常生活に必須なる科学的智能、又実生活に処し主婦の心得おくべき法律、経済、実技の一般を授くると共に、此等各種の講話と相俟つて鑑賞と見学を盛んにし学問と実際の関係を弘く会得せしむることを期してゐます。

 講師が豪華で、京都からは本野精吾(美術工芸・エスペラント)、見波定治(優生学)、田代善太郎(植物)、鈴木鼓村(和楽)らが参加した。また、移動教室として、京都帝大の考古学蒐集館*1で濱田青陵の説明を聴いたり、四条通のフルーツ・パーラー八百常で設計者の本野から店の家具、照明、メニューの意匠などの説明を聴いている。
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 創立当初の様子は、『南木芳太郎日記一:大阪郷土研究の先覚者』(大阪市史料調査会、平成21年12月)にも記載されていた。

(昭和五年)
三月九日 晴 暖
(略)
『道頓堀』三月号、大阪文化女塾より規則書数枚送り来る。(略)
四月二十一日
大阪文化女塾塾式、午前十時。
(略)仏教会館に於ける文化女塾の開塾式に臨む。十時半開式君ヶ代、塾長の挨拶、野田博士の挨拶(賛助員)、荒川重秀氏の講師代表挨拶、来賓代表として福良氏の挨拶にて閉会。(略)
六月二十五日
(略)
『会と催』、『虎屋時報』、『大学堂古書目録』、『杉本目録』、『文化女塾学報』
(略)
八月三日
(略)
『虎屋時報』、タツミヤ書店目録、大阪文化女塾伊達君より塾報(略)

 規則書や塾報(学報)が残っていれば、見てみたいものである。持っているとしたら、橋爪節也氏や故肥田晧三だろうか。
 1年目には、かろうじて20名ほどの入塾者がいたが、2年目の卒業生は6名しかいなかった。理想は高かったが、需要がなかったようだ。3年目の志望者は裁縫、割烹、花や茶のみの実科生だけになってしまい、昭和7年夏に閉塾となる。
 南木が主宰した雑誌『上方』23号(上方郷土研究会、昭和7年11月)の「萍水日誌」に閉塾直後の伊達に関する記載があった。

(昭和七年)
十月八日 (略)
 伊達南海氏文化女塾を閉ぢ、天王寺南門前に大阪名物義太夫煎餅の店を開業す、本日友人発起し、午後二時より附近の超願寺(義太夫の墓ある所)に於て開店祝賀の茶話会を催す、来会者頗る多く盛会なり。

*1:文学部陳列館のことか。