
入手した池田威宛書簡群によると、池田威(筆名石橋和)が発行していた雑誌・新聞は『雑草苑』、『文藝新報』、『演藝ウヰークリー』である。このうち『雑草苑』創刊号(雑草苑発行所、大正15年2月)を日本現代詩歌文学館が所蔵していた。早速目次と寄稿の一部のコピー(有料)を送っていただいた。ありがとうございます。どういう経緯で所蔵しているのか気になるところである。目次の一部を冒頭に挙げておく。
執筆者として予想していたのは、文学・演劇・美術の関係者である。ところが、予想していなかった分野の執筆者が数名、それ以外はほとんど未知の執筆者であった。「幸福な新年」(童話劇)を寄稿した竹内勝太郎は「竹内勝太郎の遺族を支えた石崎光瑤らの京都画壇ー京都文化博物館で「生誕140年記念石崎光瑤展」開催ー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように、竹内勝太郎君遺族扶助会書簡を見ているので予想はしていた。「泣く犬」の坪内士行は演劇関係者という意味では予想どおりだが、坪内書簡は書簡群には含まれておらず、意外であった。
一番驚いたのは、まったく想定していなかった近代仏教者、佐伯祐正と暁烏敏である。「佐伯祐正」と言われて、「知ってるよ」という人は2種類いるだろう。一つは近代仏教研究者で、もう一つは画家佐伯祐三の兄として知っている人である。
祐正については、令和4年1月29日毎日新聞大阪版夕刊に大谷栄一先生が「大正時代の関西(下)」として「佐伯祐正が耕した仏教社会事業」を寄稿しているので、読まれた人もいるだろう。明治29年大阪市中津の光徳寺に生まれ、大正10年光徳寺善隣館を開設、本格的活動を開始する大正15年までの間公営セツルメント大阪市立市民館で勤務。大正14年から翌年にかけて欧米のセツルメントを視察したという。本誌に載る「トインビーホールより」は、ロンドンのセツルメントであるトインビーホール滞在中に母へ送った私信(大正14年11月10日付け)の翻刻である。祐正は「この近所にはたくさん見る社會事業があり、出来れば本年中止りたいと思つてゐます」と書いている。渡辺祐子・河﨑洋充編『光徳寺善隣館と佐伯祐正』(光徳寺善隣館、平成26年11月)の年表によれば、大正14年10月祐正と祐三はベルサイユ、マントラ・ジョリに旅行し、その間に祐正はトインビーホールを視察、翌年1月祐正は祐三とローマで別れ、同月30日渡米している。
暁烏の「旅のうた」は親不知、新井人村家、日光など旅先で詠んだうたの寄稿である。天牛書店で買ったものの積ん読だった『暁烏敏全集』第27巻(凉風学舎、昭和54年9月)の「大正十四年日記」を読んだが、池田は出てこなかった。『雑草苑』には大谷先生が記事で引用した祐正『宗教と社会事業』(昭和6年)の発行所である顕真学苑出版部を主宰する梅原眞隆の『道』*1や『親鸞聖人研究』の広告も載っている。書簡群には近代仏教者からの書簡はまったくと言っていいほど含まれていなかった*2ので、不思議に思う次第である。もっとも、竹内宛池田書簡が富士正晴記念館に数多く保管されているにもかかわらず池田宛書簡群には竹内書簡は一つも無いので、池田宛書簡は私が入手した古書鎌田以外の古書店の手にも渡っているのかもしれない。