神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『法城を護る人々』(第一書房)を刊行中の松岡譲から雑草苑発行所宛葉書


 今年3月に法藏館書店で法蔵館文庫を3冊買って、文庫ポーチを貰った。写真を挙げた松岡譲『法城を護る人々』上巻がそのうちの1冊である。解説は、松岡の長男聖一の娘(夏目漱石の曾孫)である野尻はるひ氏。なお、「「法蔵館文庫」創刊5周年を記念「文庫ポーチ」をプレゼント!|Book Event Navi [ブックイベントナビ]」を年内開催中なので、よい子の皆様は3冊買って文庫ポーチをゲットしよう。
 『法城を護る人々』は、第一書房から上巻が大正12年6月、中巻が14年6月、下巻が15年5月に刊行された。関口安義『評伝松岡譲』(小沢書店、平成3年1月)の年譜によると、この間大正13年春一人で東京から京都鹿ヶ谷桜谷町に移り住み、秋に妻子を呼び寄せ、『法城を護る人々』続巻の稿に集中したとあるので、多忙であっただろう。
 松岡が下巻を刊行する2か月前に発信した葉書がある。「船川未乾の『エツチング頒布趣意』ー丹尾安典「未乾素描(7)」『一寸』62号への補足ー - 神保町系オタオタ日記」などで言及した池田威が主宰した雑誌『雑草苑』の発行所宛である。大正15年3月29日付けと思われ、内容は毎号雑誌をいただくことへの御礼で、とりわけ俳句欄を楽しんでいるとある。『雑誌苑』はどこの図書館にも残っておらず文藝雑誌と思われるものの内容は一切不明である(追記:創刊号の所在が判明。大正15年2月創刊)。この書簡によって、少なくとも俳句欄があったことが分かった。
 葉書の消印は、15年3月30日東京中央局の受付なので、東京で投函したことになる。下巻の校正や打ち合わせで第一書房東京市芝区高輪南町)に行っていたのかもしれない。松岡自身の住所は、「市内鹿ヶ谷一燈園下」と記載されている。これについては、関口著205頁に次のような記載がある。

 かくて、大正十三(一九二四)年春、松岡譲はまず単身京都へ赴き、鹿ヶ谷桜谷町七十四番地移り住む。西田天香一燈園の真下に位する眺望のよい借家である。北は霊鑑寺の門前、南の窓からは新緑の山が、さらに西南に京の町の大半が見渡せるというふうであった。

 この松岡邸の現状を調べたのが、『作家・松岡譲への旅』(林道舎、平成16年5月)の中野信吉氏(令和6年6年26日没)である。同書339頁によれば、霊鑑寺の隣にある駐車場がその跡地であった。
 池田宛書簡に含まれる松岡の葉書は1枚だけで、2人の関係は不明である。『法城を護る人々』を書評で絶賛したという土田杏村*1からの葉書も含まれていたが、偶然なのか関係があるのか、今後の課題である。
参考:「破船事件前後の久米正雄 - 神保町系オタオタ日記
 

*1:関口安義『評伝松岡譲』197頁によると、土田杏村は『詩と音楽』(大正12年10月、震災紀(ママ)念号)の「非文壇作家」で絶賛した。