神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

出版史料にも使える渋谷定輔『農民哀史』ーー平凡社の下中弥三郎と三浦関造ーー

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 一昨日の吉永さんの「日本オカルティズム史講座」第3回には、藤沢親雄、山本英輔、三浦関造下中弥三郎など拙ブログでお馴染みの人物が多数出てきて楽しめた。下中と三浦の関係についても言及されていたので、2人が出てくる戦前の日記を紹介しておこう。渋谷定輔『農民哀史:野の魂と行動の記録』(頸草書房、昭和45年2月)である。タイトルからは歴史書かと思ってしまうが、一般的には農民日記の例とされている。確かにそう言う面もあるが、渋谷は農民詩人なので出版史料としての側面もある。ここに三浦と平凡社を興して間もない下中が登場する。

(大正十五年)
 六月二十四日
(略)
 三浦関造氏の雑誌『自然』を見ていたら、農民自治会の紹介が出ていた。三浦氏は全面的に農民自治主義を支持しており、「この運動は、今後十年たつと全農村を風びすることを予言して間違いない」と書いている。(略)

 三浦の雑誌『自然』(自然社)は、「自然社と三浦関造 - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、実物は未見である。

(大正十五年・昭和元年)
 十月二日
(略)
 慶応病院から平凡社へ行く。そこで啓明会の埼玉関係の名簿を写す。(略)
 三浦関造氏が下中氏の部屋にいて、
「あなたは百姓の予言者です。偉大な詩人になって人類を救ってください。あなたの苦しみは人類の光であり力です。(略)私はあなたのことを九州の講演で話してきました。詩集はやっぱりあなたのがいちばん売れていますね」と、熱心に語りかける。(略)
 十一月十五日
(略)
 平凡社へ行くと、大西伍一君がいた。(略)中西氏が会計に行って二十円頼むと、会計では、どうしても十円だけにしておいてくれという。そのうち三浦関造氏が金を頼みにくる。やはり十円。平凡社会計課は、いまのところ金がなくて、印税の支払いは、一人十円ということにしている様子だ。
(略)
 十二月二十九日
(略)
 再び平凡社へ行くと、三浦関造氏が来られてしばらく話したあと、竹内君と一緒に喫茶店でコーヒーと洋菓子をご馳走になる。三浦氏は私に、
「君は大きな詩人になってくれ!」と、繰り返し言っていた。
(略)

 大西伍一については、「柳田國男に群がる図書館人(その2) - 神保町系オタオタ日記」参照。「中西氏」は、中西伊之助。『農民哀史』は、大正3年に創業し10年ほど経った平凡社の苦しい台所事情もうかがえる日記である。
 「三浦関造と神智学 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように、三浦は大正5年の段階で既に神智学について『第三帝国』に執筆している。一方、下中は昭和30年代には「セオソフィー」に言及している*1。三浦は、大正11年12月から下中の啓明会の機関誌となった『文化運動』(『第三帝国』改題誌)の編集実務を担当*2するなど下中とは親しかった。いつ下中に神智学を教えたのかは、今のところ不明である。
 オカルティストとしての三浦については、ネットで読める吉永さんの「近代日本における神智学思想の歴史」『宗教研究』84巻2号,平成22年が存在する。これに補足しておこう。
・注27で岩間浩『ユネスコ創設の源流ーー新教育運動と神智学』(学苑社、平成20年5月)中に、三浦の英文の出版物にSekizoとあることから「関造」の読みは「せきぞう」であることを紹介している。→三浦の『祈れる魂:詩集』(隆文館、大正10年7月)収録の英文詩にも「Sekizo」とある。
・注35で三浦の『心霊の飛躍』(日東書院、昭和7年6月)の記述から竹内文献を知っていたと思われるとしている。→「『純正真道』に酒井勝軍と荒深道斎の往復書簡 - 神保町系オタオタ日記」で言及したとおり、三浦は昭和7年冬には荒深道斉に天津教のことを教えている。
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