3月31日は、吉永進一さんの命日でした。吉永さんが発見した静坐社の資料に係わる研究会が南山大学であるというので、のぞいてきました。発表は、栗田英彦「京都静坐社の人脈に見る宗教・文学・女性」と雲島知恵「静坐社資料に見る戦間期女性文筆家の国際ネットワークと日本文学の英語翻訳:小林信子訳 The sketch book of the Lady Sei Shōnagon を糸口に」。関係者の皆様、ありがとうございました。
吉永さんが蒔いた種が栗田先生らを中心に順調に育っていることがうかがえて、感慨深いものがありました。また、静坐社資料が静坐社そのものに関心のある研究者だけではなく、近代仏教や英文学など、多彩な分野の研究者が注目する資料が含まれていることも実感できました。やはり、一次資料の保存・公開・活用は重要ですね。
雲島先生の発表の中で「もしや?」と思った人名については、さすがA先生が質問しておられた。私がビビビと来た背景について説明しておこう。劇作家秋田雨雀の日記には、栗田先生が静坐社の国際的人脈として挙げるミラ・リシャールが夫のポール・リシャールと共に*1、ビアトリス鈴木が夫の大拙と共に*2登場する。そして、アレキサンダーの名前もそれらと同時に登場している。更に秋田は、静坐社の創設者小林信子が参加した京都の脚本朗読会「カメレオン」にも参加している*3。これらは日記に断片的に出てくるので、アレキサンダーと信子や静坐社との関係は不明である。
もう一人、私が連想したのは戦前の静坐社に短期間参加した福田與という女性である。與は、京都市立崇仁小学校や京都府立盲学校の教諭であった。この女性も注目すべき人物で、多くの求道者との関わりがある。静坐社には発起人の一人である足利浄円の勧めで参加した*4。そして、戦後のことではあるが昭和27年に再来日*5したアレキサンダーと会っている。これは、與の『草の花:歌集』(初音書房、昭和37年7月)の昭和27年の条に「アレキサンダ女史」の前書きで4首掲載されていることで確認できる。その1首には、「国々を旅してここに五十年バハイの教をときひろめ給ふ」とある*6。
この注目すべき與の旧蔵書が、昨年知恩寺の古本まつりで竹岡書店の均一台に出現した。最初に見つけたのは、青山廣志編『芦田恵之助先生七十八歳の教壇記録』(いずみ会、昭和38年11月)で「福田與」と記されていた。これで、残りの会期中パトロールすることになった。
その成果が、師友の没日一覧に書き込み多数の前掲歌集である。府立図書館所蔵分には3人の没日の訂正がされているが、本書には同じ筆蹟で他に4名分の訂正と100人近い追記がなされている。こちらには署名はない。しかし、與による書き込みと見てよいだろう。秦テルヲ、岡田幡[ママ]陽*7、若原史明*8、芦田が出てくる頁を挙げておく。與がアレキサンダーに会った際に集まった7人の中に信子はいただろうか。
*1:「秋田雨雀とポール・リシャール - 神保町系オタオタ日記」(コメント欄に吉永さん。この頃は、私の正体は吉永さんにも内緒にしていた(^_^;))、「大正期日本のバハイ教徒 - 神保町系オタオタ日記」など参照
*3:「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」参照
*4:「戦前も小林信子の静坐社に通っていた福田與 - 神保町系オタオタ日記」参照
*5:柴田巌・後藤斉編、峰芳隆監修『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房、平成25年10月)にアレキサンダー(Agnes Baldwin Alexander)として立項されていて、滞日は大正8~12年、昭和3~7年、12年、25~42年。
*6:「アグネス・アレキサンダーからバハイの教えを聞いた福田與 - 神保町系オタオタ日記」参照