神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

元台北帝国大学教授で法人類学者だった増田福太郎の教職追放ーー増田は、藤沢親雄・小島威彦・堀一郎らとムー大陸の夢を見たかーー

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 『国民精神文化研究所要覧:昭和十六年三月』(国民精神文化研究所昭和16年3月)で職員の一覧を見ていると、色々考えさせられる。多くの職員が、戦後公職追放や教職追放となっている。しかし、在職中は研究に切磋琢磨し、互いに刺激しあった仲だっただろう。増田福太郎(所員)と柳田国男の娘婿堀一郎(助手)もそんな関係だったはずだ。「日本法理研究会にも注目 - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、二人は国民精神文化研究所から共著『東亜宗教の課題』(昭和17年10月)を刊行している。そこでも触れたが、増田については岩波書店の講座『帝国日本の学知』第1巻「『帝国』編成の系譜」所収の呉豪人*1「植民地の法学者たちーー『近代』パライソの落とし子」で、研究対象となっている。
 呉論文では、増田を理解する際に注意すべき点として、恩師筧克彦の影響と参加していたファッショ団体日本法理研究会の2点を挙げている。これに加えれば、W.J.ペリーの『太陽の子供たち』の影響も重要である。増田は「日子伝承」と訳しているが、琉球、台湾、インドネシアなど南方に残る日子伝承について、度々紹介している。ただ、ペリーやその師のエリオット・スミスの学説に従うと、日本の神話や民俗がエジプト起源という不敬なことにもなりかねないためか、『南方法秩序序説』(国民精神文化研究所昭和17年1月)では、

(略)手とり早い比較と類似とを追うて、日本の尊厳なる「天つ日嗣」の伝承と無雑作に結び付けんとする軽挙妄動は深く戒めねばならぬ。所謂実証主義者の案外陥り易い弊とする。

と慎重である。しかし、その一方で続けて、

 唯、南方の新しい法秩序を建設するといふ政策的・意志的な観点に立つとき、如上の伝承や祭祀観念を、日本的法秩序の一翼として参加せしむるといふことは、無理とはいへぬであらう。すなはち、南方法秩序を建設するの大業は、新しい秩序の建設であると共に、天つ日嗣を枢軸とする本然の秩序の回復といふ意味を十分呼吸し得るものと考へる。

と書いている。同僚で竹内文献契丹古伝などに基づき、太古世界を統治していた日本が再び世界を統治するのは当然とする藤沢親雄のトンデモない妄想に近いものを感じさせる。堀やこれまた同僚だったスメラ学塾の小島威彦は、増田の影響があったのか、日子伝承に言及している*2。おそらく、チャーチワードのムー大陸論を知っていたと思われる増田は、同僚の藤沢、小島、堀らとムー大陸について語ることはあっただろうか。
 増田の経歴については、ネットで読める「増田福太郎関係資料一班ーー日本統治下台湾宗教史の一齣ーー(初稿)」の「増田福太郎博士略年譜」に詳しい。昭和14年台北帝国大学農学部助教授兼附属農林専門部教授から国民精神文化研究所所員に転任している。また、昭和21年又は22年の条に「公職追放か?要検討」とある。しかし、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に増田の名前はないので、正しくは教職追放だと思われる。呉論文でも、本文では、

GHQによって彼が「公職追放」された際にも、その理由は彼が「反動学者」だったからではなく彼が「国民精神文化研究所研究員」であったからであった*3

としながら、注125で「戦後に教職追放をされてから数年間、不遇な日々を強いられた」としている。研究者の諸君は、公職追放に言及する場合、『公職追放に関する覚書該当者名簿』で記載の有無・該当事項を確認することや、狭義の公職追放と教職追放の区別を厳密に使用していただきたい。

*1:台湾輔仁大学法律学系助理教授

*2:堀一郎と偽史運動(その1) - 神保町系オタオタ日記」、「堀一郎と偽史運動(その2) - 神保町系オタオタ日記」及び「スメラ学塾と日の御子文化 - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:出典は、増田貞治『増田福太郎伝』(増田貞治、平成15年)。この自費出版の本は、国内の図書館には無いようだ。台湾の図書館にあるのかな。