これは戦争中、岡田桑三、林達三、中島健蔵、木村伊兵衛、
原弘氏らを中心として出版していた「フロント」という写真
雑誌−これには私や岩村忍君も顧問として関係していました−
の経営面を担当していた山本房次郎さんという方があり、この
山本氏がもと軍の糧抹省にいた陸軍少佐の人と共に、椎茸の
菌の生産を計画して、この事業化について私に相談をもちこ
まれたのです。(中略)
私はまた渋沢さんにこの計画をもちこんだのです。渋沢さん
は今度は翡翠の時とちがって、相当本気に考えてくださって、
渋沢さんの肝入りで会社がつくられることになりました。
(「パージ時代の渋沢さんの思い出」:初出「民間伝承」第
28号4号 昭和39年)
岡正雄が東方社の「FRONT」で具体的には何をしていたのだろうか?
ちなみに、先日の「プリンティング・オデッセイ2000−2005−
印刷博物館コレクション展」(前期)では、
同誌の「1・2合併号 海軍号」(昭和17年)、「3・4合併号
陸軍号」(昭和17年)、「7号 落下傘部隊号」(昭和18年)
が展示された。(現在は後期開催中)
「FRONT」との関係もさることながら、もっとおもしろい雑誌にも関係して
いたみたいだ。巻末の「岡正雄年譜」によると、
昭和24年(1949)51歳
1月、友人の発行する漫画雑誌「スーパーマン」の顧問として参加。
のち専務取締役として、経営、金策に苦心したが、秋廃刊。スーパー
マン誌の負債のため、家計は困窮を極める。