ところで、日本学研究所として私に与えられた研究室という
のは、それまで精神分析学の研究室だったところなんですよ。
フロイトがやはりナチスの侵入によって亡命したために、そ
の研究室が空いて、その部屋が私に当てがわれたわけ。
(中略)
ヒトラーが入ってきたのは三月ですけど、すでにオーストリア
首相のドルフスはナチスに射殺されており、ラバックという放
送局も、ナチスに占領されていたんです。(中略)
それからその日の午後は、英雄広場でヒトラーが市民への呼び
かけをやったんですね。そのときの演説はいまでも耳にのこって
ますけど、
「この併合はヒトラー個人の力ではない、もちろんドイツの力で
もない、これはオーストラリア人[ママ]の力によるものである」
というわけです。うまいもんだったですよ。
(「民族学との出会い」:初出「歴史公論」4巻10、11、
12号 昭和53年)