神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

民俗学とは柳田國男そのものを研究する学問であるーー柳田と大和高取の南聡行とのあやすーぃ関係ーー

タイトルは冗談である。しかし、猫猫先生こと小谷野敦先生言うところの「民俗学者学」になると思うが、柳田國男の人生を調べると何かと面白い。精緻な『柳田国男伝』にも出てこないような人物、例えば増田正雄、織田善雄のような偽史運動家との関係については大塚英志偽史としての民俗学柳田国男と異端の思想』(角川書店、平成19年5月*1*2、行地社関係については木藤亮太・すが秀実アナキスト民俗学尊王の官僚・柳田国男』(筑摩書房、平成29年4月)*3で研究されている。今回は、南聡行という正体不明の人物と柳田との怪しい(?)関係について紹介しておこう。
『倉富勇三郎日記』は柳田が貴族院書記官長を辞めるに至った経緯に関する記述で注目された。だが、実は辞めた後の時期の日記にも不思議な記述がある*4

(大正一〇年)
四月六日
(略)
○午後五時後予正に食す。有馬秀雄電話にて、安藤信昭の分家男爵安藤某[直雄、旧和歌山藩家老家当主]及信昭の相談人村上某[不詳]と共に只今蠣殻町の有馬別邸に在り。其用事は、南聡行[不詳]なるもの満洲にて陸軍の為めに尽力したることあり。其報酬として陸軍省より軍部の火薬庫跡十万坪を、時価にすれは坪百円位なるものを二十五円にて払ひ下くへ[く]、火薬庫跡は元来安藤信昭の屋敷地なりし縁故にて、安藤より払下を願ふことを勧め、既に橋爪慎吾、村上某、安藤某は此事に付相談を為し、橋爪は警視庁に南の人物を問ひ合せたる処、其評判は非常に悪しき由。自分(有馬)は、百円の地所を二十五円にて払ひ下くると云ふ如き格外のことは固より問題とするに足らすと思へとも、村上、安藤等は熱心にて、南は柳田国男[民俗学者、東京朝日新聞社客員、前貴族院書記官長]と懇意なりと云ひ、安藤も柳田に面会したるも、十分詳しき話を聞くこと出来さりしに付、予より之を柳田に聞き呉度とのことなり。一寸電話にて南の人物を問ひ呉度。(略)

[ ]内は校訂者による注記及び補記、( )内は日記原文のもの

有馬に頼まれた倉富は柳田に電話したが家におらず、翌日電話すると、

四月七日
(略)
○(略)柳田、南は大和高取の人にて、旧主植村家か窮迫の時、縁故払下を周旋して其窮を拯
ひたることあり。自分(柳田)は、南は二十年位交り居り、是迄も援助したることもあるか、同人の計画は兎角過大なることを為す故、成功することは少し。然し、時としては成功することもあるならん。左もなけれは、彼位の生活を為すことは出来さるへし。自分は彼は不正の人には非すと思ふと云ふ。予之を謝す。(略)

南は大和高取出身で柳田とは20年位付き合いがある人物であった。柳田は悪い人ではないと言うが、警視庁での評判は非常に悪いようだ。どういう人物か私にも分からないが、グーグルブックスで日本銀行調査局編『日本金融史資料:昭和編』24巻(大蔵省印刷局、昭和44年)がヒットした。「南聡行(当時東京市外目黒在住)ト共同シ大正七、八年頃朝鮮仁川ニ於テ製鉄事業ヲ経営シ行金五万円ヲ投シタルカ全部損失ニ帰シタリ」とあるようだ。同一人物だとすると、南は満洲や朝鮮で活動した事業家で時に事業には失敗した人物らしい。警視庁での評判が悪い理由は不明だが、柳田も不思議な人物と長い付き合いがあるものだ。

倉富勇三郎日記 第二巻: 大正一〇年・大正一一年

倉富勇三郎日記 第二巻: 大正一〇年・大正一一年

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2012/06/29
  • メディア: 単行本

文学フリマ京都で『天狗倶楽部☆フォーエバー』を発見ーー大正8年高橋箒庵は彌次将軍吉岡信敬に出会ったかーー

f:id:jyunku:20200119184515j:plain
みやこめっせ文学フリマ京都をのぞいてきた。いつも思うが、若い人が多いので、私みたいな爺さんが行くとやや場違いの感がある(´・_・`)冷やかしだけで買う積もりは無かったのだが、見本誌コーナーで、すとせかい『天狗倶楽部☆フォーエバー:明治奇人奇行カタログ』(ストワールドイノベーション出版局、令和元年12月)を見つけ、面白そうなので慌てて購入、500円。天狗倶楽部のメンバー及び彼等の奇行を主にヨコジュンさんの著作を元に面白く紹介したものである。特徴的なのは、ヨコジュンさんが天狗倶楽部のバンカラ振りを痛快としている見方に対し、女性目線(?)から「それ、どう考えても迷惑行為だろう」と突っ込みを入れているところである。ヨコジュンファンの私は、ヨコジュン本に「うん、うん」と頷くだけであったが、本書で「なるほど、そういう視点があったか」と目からうろこであった。特に新知見を加える研究書のようなものではないが、押川春浪に関する近年の論文も踏まえ、おちゃらけた雰囲気の中にも、天狗倶楽部への愛情や深い理解を感じさせるものであった。
さて、私は天狗倶楽部の一員である彌次将軍こと吉岡信敬については、
・「早稲田大学応援団長吉岡信敬にとうとう出会う - 神保町系オタオタ日記
・「三上於菟吉と早稲田大学応援団長吉岡信敬 - 神保町系オタオタ日記
・「亡くなる直前の吉岡信敬彌次将軍 - 神保町系オタオタ日記
・「吉岡信敬彌次将軍の独男宣言 - 神保町系オタオタ日記
などで、紹介したことがある。今回、大正8年高橋箒庵が出会った「吉岡信敬」についてアップしよう。『萬象録:高橋箒庵日記』巻7(思文閣出版、平成2年7月)から。

(大正八年)
三月十四日 金曜日 晴/寒暖計四十八度
(略)
吉岡信敬なる者、静岡臨済寺の書画什器を東京にて売却せんとする其周旋方を依頼せられたりとて来訪、同品は湯島の麟祥院に預け置きたれば一度検分を乞ひたしと云ふ。田舎寺寺の道具など到底優等品あるべしとも思はれず、実見の上所見を直言せば住持は必ず失望すべしと言ひたれども、是非に一覧をとの事に就き明日午前麟祥院を訪ふべしと答へ置けり。

翌3月15日高橋は麟祥院に出かけたが、予想通り取るに足らない物ばかりで、全体で3千円から5千円位と言うと、吉岡ほか2、3名の立会人は皆落胆したという。『明治バンカラ快人伝』(ちくま文庫、平成8年2月)によれば、吉岡はこの頃読売新聞の記者であった。高橋の日記の記述だけでは、彌次将軍の吉岡と同定する決め手に欠けるが、直感的には同一人物のような気がする。ただ、早慶戦中止事件の中心人物が、慶應出身の高橋の所へ行ったとすると何とも言えないものがある。
f:id:jyunku:20200119114111j:plain

高松宮宣仁親王が敗戦直前の日記を破り捨て隠した秘密とは

原武史『皇后考』(講談社平成27年2月)はよく調べた力作と感心したものだった。ただ1カ所、『高松宮日記』の「謎の記述」(昭和20年6月9日の条)について原先生が高松宮の考えとしている点について、原武史『皇后考』で疑問に思ったこと - 神保町系オタオタ日記」で元宮内大臣松平恒雄の発言ではないかと指摘した。その後、twitter経由で原先生に届いたようで、講談社学術文庫版で注に松平の発言とも読める云々と追記されところである。
実は、『高松宮日記』にはもっと驚くべき記述がある。いや、正確に言えば、あったはずだが破棄されて今はない。それは、「高松宮が隠したかった秘密研究 - 神保町系オタオタ日記」で言及した昭和20年4月25日から28日までの日記である。校閲者による脚注に原本二葉が切り取られている旨記載がある。そして、日記の同月29日の条には前日からの続きと推定される記述がある(片仮名を平仮名に改めた。以下同じ。)。

研究が今度の戦争に役立てば勿論よいので、そのための手段はあらゆる協力をしてなすべしと思ふが、例へ間に合はずとも副産物的の成果は幾多已に利用さるべきものあり、又将来日本が今これだけやつておけば平戦を問はず大きな力になると信ずる。

私はてっきり、「研究」は原爆か細菌兵器かと思ってしまったが、どうやら奮龍という兵器だったらしい。日記帳の余白頁に書かれた記録として、

旅行先      出発月日     皈着月日     旅行中重要事項
(略)
浅間射場 (日帰) 四-二五-〇五〇〇 四--二五-二〇四〇 軽井沢より浅間牧場へ。奮龍三型。第一回実験

「浅間牧場」の脚注には「浅間山射場の所在地」とある。4月25日に奮龍三型の実験のため浅間山射場へ行っていたことがわかる。奮龍は地対空ミサイルらしい。日記を破って隠すほどの兵器ではなさそうだ。
その後、書砦・梁山泊の読書会で『皇后考』を読み、昭和天皇と皇太后節子の間に確執があったらしきことを知り、あらためて『高松宮日記』を見ると、問題の部分の前後に、

(昭和二十年)
四月二十四日 (火) 晴
(略)
一八〇〇大宮御所。二一五〇皈る。皈途「パンク」す。
四月二十九日 (日) 晴
(略)
一三三〇御所、大宮御所へ。一五三〇皈邸。
(略)

とある。日記が破棄された前後の日に皇太后が住んでいた大宮御所へ出かけている。4月29日に御所へ行っているのは、天長節の関係である。この失われた部分に何か昭和天皇と皇太后の確執に関する記述があったのではないかと大胆な推測をしてしまう。ただし、『昭和天皇実録』を見ても、この間にそれらしい記載はない。もっとも、同実録4月26日の条に気になる記述がある。「夕刻、御文庫に崇仁親王をお召しになり、御対面になる」である。三笠宮昭和天皇に呼ばれている。三笠宮の日記は公開されていないが、この日の所には一体何が書かれているだろうか。

皇后考

皇后考

眞山青果と柳田國男のながーいお付き合い

f:id:jyunku:20200117185829j:plain
平成28年12月から翌年1月まで国文学研究資料館で「眞山青果旧蔵資料展ーーその人、その仕事ーー」が開催された。残念ながら実見できなかったが、青田寿美先生から冊子をいただいた。ありがとうございます。冊子の内容は、その後一部修正の上、『真山青果とは何者か?』(星槎グループ発行・文学通信発売)に「ビジュアルガイド」として収録された。そこには昭和19年の住所録が紹介されていて、尾崎久弥、喜多村緑郎木村毅菊池寛久米正雄小杉未醒、相馬御風、近松秋江徳田秋声長田幹彦、南木芳太郎、正宗白鳥三田村鳶魚溝口健二森銑三森田草平山本有三といった名前が挙がっている。
さて、『柳田國男全集』別巻1の年譜を見てたら、眞山青果の名前を発見。

(大正一五年)
八月二日 東北大学で「義経記から清悦物語まで」を講演したあと、松島に滞在中の真山青果を訪ねる。(略)

柳田は、この時は伊能嘉矩(大正14年没)の追悼式・追悼講演会のため東北へ出かけていた。年譜によれば青果を訪ねているが、前記住所録で例示されている人名には柳田は含まれていなかった。二人には共通の知人が複数いて、田山花袋小栗風葉国木田独歩らである。明治時代から二人に面識があったと思われるが、具体的に二人が会った時期は確認できない。しかし、今日が真の誕生日らしい伊藤整の『日本文壇史』12巻には、次のような記述がある。

夜になってから、花袋たち文学者の仲間が、茅ヶ崎の海と反対側の鉄道線路を越えた六本松の焼場で独歩の遺骸を焼いた。その夜茅ヶ崎館に泊ったのは、中沢臨川柳田国男、吉江孤雁、沼波瓊音小栗風葉真山青果などであったが、田山花袋の目にはそのときも風葉や青果の態度が不真面目で妙にしつっこいものに見えた。彼は腹を立てて青果と言い争いをし、柳田国男中沢臨川にたしなめられた。

これは独歩の亡くなった明治41年6月23日の翌日の出来事である。これが正しければ、青果と柳田は遅くともこの時出会っていることになる。
ところが、柳田の年譜によれば、

(明治四一年)
六月二三日 川内白浜の高瀬屋に泊まり、独歩の死を伝える花袋からの電報を受け取る。(略)
六月二四日 伊集院あたりを歩く。
六月二九日 鹿児島に戻り、再び明治館に投宿する。

柳田はこの時期は、「産業に関する法制上の資料調査」のため九州に出張中であった。年譜に記載はないが、花袋からの電報を見て茅ヶ崎に向かったのだろうか。黒岩比佐子さんが生きておられたら直ぐに分かるのだろうが、もう少し調べてみようか。なお、柳田が青果の作品を読んでいたことは、明治41年5月10日読売新聞の「文芸雑談」で青果の「南小泉村」(『新潮』明治40年5月号)を「兎に角面白い作だ」とほめているので間違いない。
参考:「『真山青果とは何者か?』(星槎グループ)を読んでみた。 - 神保町系オタオタ日記
   「吉野作造の旧友としての真山青果ーー野村喬『評傳眞山靑果』への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

敗戦後に藤澤親雄『世紀の預言』を読む国学之徒の小原角男とは

f:id:jyunku:20200116194201j:plain
藤澤親雄『世紀の預言』(偕成社昭和17年3月初版・同年7月再販)は、社会人になってからどこかの均一台で見つけたと思う。いわゆるトンデモ本で、偽史とされる契丹古伝、竹内文献、上記、九鬼文献、ムー大陸説などを駆使している。竹内文献については、天津教事件の関係で名前を出すと発禁になるおそれがあったと思われ、「或る太古史の文献」などと具体名を伏せている。しかし、家蔵の本には「竹内文献」との書き込みがあった。
f:id:jyunku:20200116194459j:plain
この旧蔵者は蔵書印から、小原角男という人とわかる。書き込みから昭和21年9月4日に入手又は読み始め、同月11日に読了している。「国学之徒」との書き込みもあった。
f:id:jyunku:20200116194520j:plain
調べて見たが、小原という人物の経歴は不詳であった。敗戦後、猫も杓子も民主主義やマルクス主義を持てはやしていた時期に、藤澤親雄の本を読み、国学之徒と称する小原。その後、どのような人生を歩んだだろうか。

仏教者としての三角寛と浄土真宗本願寺派最乗寺住職の大原寂雲

f:id:jyunku:20200115192529j:plain
昭和60年10月号から平成22年10月号まで300冊刊行された『彷書月刊』という本好きの人向けの雑誌があった。全冊蒐集しようとする人も多いようだが、特集形式なので先ずは総目次の付いた最後の2冊を入手して、それを見て自分の関心のある特集号だけ集めておけばよいだろう。一時期復刊するとの話があったが、まだ具体的な動きはないようだ。平成21年12月号は南陀楼綾繁氏の連載「ぼくの書サイ徘徊録」100回記念で、氏の企画による特集「ミニコミの設計図」であった。この号だったか、南陀楼氏から寄稿を頼まれたが断ってしまった。その節は失礼しました。あらためて執筆メンバーを見ると、豪華な面々でここに「神保町のオタ」が並んでいたかもしれないと思うと、感慨深い。
さて、昨年末三密堂の100円均一台で『ブディストマガジン』5巻3号(ブディスト・マガジン刊行会、昭和29年3月)なる雑誌を発見。西本願寺教学部が出してる雑誌のようだ。
f:id:jyunku:20200115193510j:plain
目次を見ると、三角寛「所生の母」が載っていたので購入。『彷書月刊平成23年3月号特集「没後三〇年・三角寛の世界」所収の「三角寛略年譜」を見ると、昭和26年娘の寛子が山下大四郎と結婚、映画館人世坐(23年開館)に続いて、27年弁天座を開館していた時期に当たる。記事は、昭和21年5月母の死んだ夢を見た後、母が危篤という電報が来たという話から始まる。続いて亡くなったという電報も来て、何とか切符を確保し寛子を連れて大分へ帰郷。一刻も早く母の「死に顔」に対面したいと願った三角だが、既に兄により火葬にされていた。母親も「死に顔は見せんでもいい、骨だけ大谷に納めてくれ」と言っていたという。寛子の『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』(現代書館、平成10年9月)によれば、祖母(三角の母)タズは、昭和21年88歳で亡くなっている。
寛子著によると、三角は12歳の時*1にタズの判断で最乗寺(浄土真宗本願寺派)の大原寂雲に預けられ、お経、漢詩、『論語』を習ったという。この大原だが、井上円了の『南船北馬集』第2編「大分県紀行」明治40年5月19日の条に出てきて、「哲学館出身」とある。大正7年版『東洋大学一覧』を見ると、得業生として大原の名前がある。住所は大分県大野郡田中村(現・豊後大野市大野町田中)である。確かに大原という住職は存在したことになる。
昭和12年9月歌舞伎座で上演された三角寛原作『山窩の女』 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように、三角は『日本仏教人名辞典』に立項されている。しかし、三角は「ひとのみち」(PL教団の前身)の信者だったし、寛子は「祖母に比べ、寺で育ったのに、父は少しも信心深くなかった」と書いている。また、前記『彷書月刊』のインタビューで寛子の夫三浦大四郎は、戦後三角が作った宗教法人について、ペーパー法人で「宗教法人だと税金がかからないですし、それが一番大きかったんじゃないですか」と述べている。この宗教法人、「孝養山母念寺」という。「母念」という名称は、亡くなった母タズへの三角の思いを込めたものだろう。タズの法名は「願力院釋尼慈声」であった。

*1:筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(文春新書、平成18年10月)は大正3年満10歳の時らしいとしている。

研究者の皆様、公職追放と教職追放の違いには御注意!ーー大串兎代夫と石塚尊俊の事例からーー

f:id:jyunku:20200112182826j:plain
最近読んだ本で公職追放の時期の誤りや公職追放と教職追放を混同しているのではないかと思われる事例があった。
1つ目は、國學院大學研究開発推進センター編・阪本是丸責任編集『昭和前期の神道と社会』(弘文堂)の宮本誉士「大串兎代夫の帝国憲法第三十一条解釈と御稜威論」で、大串の経歴中「昭和二十年公職追放」とある点。昭和20年に於ける公職追放特高関係だけで、一般的追放は昭和21年以降である。『公職追放に関する覚書該当者名簿』によれば、大串の該当事由は「大日本言論報国会理事著書」。大串と同じく同会理事を理由として公職追放となった市川房枝の場合は22年の追放とされている。20年の段階で公職追放や教職追放を見込んで、國學院大學教授を辞職したという可能性はあるが、再度追放の時期を精査した方がよいだろう*1
もう1つは、『柳田國男全集』別巻1年譜昭和21年6月15日の条で、「公職追放されたことを伝える石塚尊俊からの便りに返事を書き」とある点。しかし、石塚の名前は『公職追放に関する覚書該当者名簿』にはない。一方、國學院大學のホームページ「戦後の苦難と新生國學院[学問の道]」によると、昭和21年國學院大學神道部の卒業者は教職追放となったとあるが、石塚は同部卒である。石塚の書簡に「公職追放」と書かれていたのであろうが、教職追放が正しいと思われる。以上、出典に公職追放とあっても、教職追放と混同されていると思われる場合があるので、研究者の皆様は気を付けましょう。
なお、大串や市川のようなメディア関係者・文化人だけに限られるが、『公職追放に関する覚書該当者名簿』の原本を見なくても、トム・リバーフィールド氏が『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)に「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」をまとめていて便利である。「「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」が完成 - 神保町系オタオタ日記」参照。
追記:石塚『顧みる八十余年:民俗採訪につとめて』(ワン・ライン、平成18年10月)の「著者略歴」によると、昭和21年3月の復員後、教職追放令に該当。

*1:「大串の履歴については、「大串兎代夫先生の略歴・主要業績」(『憲法研究』第一〇号、昭和四十九年)等参照」とある。