最近読んだ本で公職追放の時期の誤りや公職追放と教職追放を混同しているのではないかと思われる事例があった。
1つ目は、國學院大學研究開発推進センター編・阪本是丸責任編集『昭和前期の神道と社会』(弘文堂)の宮本誉士「大串兎代夫の帝国憲法第三十一条解釈と御稜威論」で、大串の経歴中「昭和二十年公職追放」とある点。昭和20年に於ける公職追放は特高関係だけで、一般的追放は昭和21年以降である。『公職追放に関する覚書該当者名簿』によれば、大串の該当事由は「大日本言論報国会理事著書」。大串と同じく同会理事を理由として公職追放となった市川房枝の場合は22年の追放とされている。20年の段階で公職追放や教職追放を見込んで、國學院大學教授を辞職したという可能性はあるが、再度追放の時期を精査した方がよいだろう*1。
もう1つは、『柳田國男全集』別巻1年譜昭和21年6月15日の条で、「公職追放されたことを伝える石塚尊俊からの便りに返事を書き」とある点。しかし、石塚の名前は『公職追放に関する覚書該当者名簿』にはない。一方、國學院大學のホームページ「戦後の苦難と新生國學院[学問の道]」によると、昭和21年國學院大學神道部の卒業者は教職追放となったとあるが、石塚は同部卒である。石塚の書簡に「公職追放」と書かれていたのであろうが、教職追放が正しいと思われる。以上、出典に公職追放とあっても、教職追放と混同されていると思われる場合があるので、研究者の皆様は気を付けましょう。
なお、大串や市川のようなメディア関係者・文化人だけに限られるが、『公職追放に関する覚書該当者名簿』の原本を見なくても、トム・リバーフィールド氏が『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)に「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」をまとめていて便利である。「「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」が完成 - 神保町系オタオタ日記」参照。
追記:石塚『顧みる八十余年:民俗採訪につとめて』(ワン・ライン、平成18年10月)の「著者略歴」によると、昭和21年3月の復員後、教職追放令に該当。