神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

高松宮宣仁親王が敗戦直前の日記を破り捨て隠した秘密とは

原武史『皇后考』(講談社平成27年2月)はよく調べた力作と感心したものだった。ただ1カ所、『高松宮日記』の「謎の記述」(昭和20年6月9日の条)について原先生が高松宮の考えとしている点について、原武史『皇后考』で疑問に思ったこと - 神保町系オタオタ日記」で元宮内大臣松平恒雄の発言ではないかと指摘した。その後、twitter経由で原先生に届いたようで、講談社学術文庫版で注に松平の発言とも読める云々と追記されところである。
実は、『高松宮日記』にはもっと驚くべき記述がある。いや、正確に言えば、あったはずだが破棄されて今はない。それは、「高松宮が隠したかった秘密研究 - 神保町系オタオタ日記」で言及した昭和20年4月25日から28日までの日記である。校閲者による脚注に原本二葉が切り取られている旨記載がある。そして、日記の同月29日の条には前日からの続きと推定される記述がある(片仮名を平仮名に改めた。以下同じ。)。

研究が今度の戦争に役立てば勿論よいので、そのための手段はあらゆる協力をしてなすべしと思ふが、例へ間に合はずとも副産物的の成果は幾多已に利用さるべきものあり、又将来日本が今これだけやつておけば平戦を問はず大きな力になると信ずる。

私はてっきり、「研究」は原爆か細菌兵器かと思ってしまったが、どうやら奮龍という兵器だったらしい。日記帳の余白頁に書かれた記録として、

旅行先      出発月日     皈着月日     旅行中重要事項
(略)
浅間射場 (日帰) 四-二五-〇五〇〇 四--二五-二〇四〇 軽井沢より浅間牧場へ。奮龍三型。第一回実験

「浅間牧場」の脚注には「浅間山射場の所在地」とある。4月25日に奮龍三型の実験のため浅間山射場へ行っていたことがわかる。奮龍は地対空ミサイルらしい。日記を破って隠すほどの兵器ではなさそうだ。
その後、書砦・梁山泊の読書会で『皇后考』を読み、昭和天皇と皇太后節子の間に確執があったらしきことを知り、あらためて『高松宮日記』を見ると、問題の部分の前後に、

(昭和二十年)
四月二十四日 (火) 晴
(略)
一八〇〇大宮御所。二一五〇皈る。皈途「パンク」す。
四月二十九日 (日) 晴
(略)
一三三〇御所、大宮御所へ。一五三〇皈邸。
(略)

とある。日記が破棄された前後の日に皇太后が住んでいた大宮御所へ出かけている。4月29日に御所へ行っているのは、天長節の関係である。この失われた部分に何か昭和天皇と皇太后の確執に関する記述があったのではないかと大胆な推測をしてしまう。ただし、『昭和天皇実録』を見ても、この間にそれらしい記載はない。もっとも、同実録4月26日の条に気になる記述がある。「夕刻、御文庫に崇仁親王をお召しになり、御対面になる」である。三笠宮昭和天皇に呼ばれている。三笠宮の日記は公開されていないが、この日の所には一体何が書かれているだろうか。

皇后考

皇后考