平成28年12月から翌年1月まで国文学研究資料館で「眞山青果旧蔵資料展ーーその人、その仕事ーー」が開催された。残念ながら実見できなかったが、青田寿美先生から冊子をいただいた。ありがとうございます。冊子の内容は、その後一部修正の上、『真山青果とは何者か?』(星槎グループ発行・文学通信発売)に「ビジュアルガイド」として収録された。そこには昭和19年の住所録が紹介されていて、尾崎久弥、喜多村緑郎、木村毅、菊池寛、久米正雄、小杉未醒、相馬御風、近松秋江、徳田秋声、長田幹彦、南木芳太郎、正宗白鳥、三田村鳶魚、溝口健二、森銑三、森田草平、山本有三といった名前が挙がっている。
さて、『柳田國男全集』別巻1の年譜を見てたら、眞山青果の名前を発見。
柳田は、この時は伊能嘉矩(大正14年没)の追悼式・追悼講演会のため東北へ出かけていた。年譜によれば青果を訪ねているが、前記住所録で例示されている人名には柳田は含まれていなかった。二人には共通の知人が複数いて、田山花袋、小栗風葉、国木田独歩らである。明治時代から二人に面識があったと思われるが、具体的に二人が会った時期は確認できない。しかし、今日が真の誕生日らしい伊藤整の『日本文壇史』12巻には、次のような記述がある。
夜になってから、花袋たち文学者の仲間が、茅ヶ崎の海と反対側の鉄道線路を越えた六本松の焼場で独歩の遺骸を焼いた。その夜茅ヶ崎館に泊ったのは、中沢臨川、柳田国男、吉江孤雁、沼波瓊音、小栗風葉、真山青果などであったが、田山花袋の目にはそのときも風葉や青果の態度が不真面目で妙にしつっこいものに見えた。彼は腹を立てて青果と言い争いをし、柳田国男や中沢臨川にたしなめられた。
これは独歩の亡くなった明治41年6月23日の翌日の出来事である。これが正しければ、青果と柳田は遅くともこの時出会っていることになる。
ところが、柳田の年譜によれば、
(明治四一年)
六月二三日 川内白浜の高瀬屋に泊まり、独歩の死を伝える花袋からの電報を受け取る。(略)
六月二四日 伊集院あたりを歩く。
六月二九日 鹿児島に戻り、再び明治館に投宿する。
柳田はこの時期は、「産業に関する法制上の資料調査」のため九州に出張中であった。年譜に記載はないが、花袋からの電報を見て茅ヶ崎に向かったのだろうか。黒岩比佐子さんが生きておられたら直ぐに分かるのだろうが、もう少し調べてみようか。なお、柳田が青果の作品を読んでいたことは、明治41年5月10日読売新聞の「文芸雑談」で青果の「南小泉村」(『新潮』明治40年5月号)を「兎に角面白い作だ」とほめているので間違いない。
参考:「『真山青果とは何者か?』(星槎グループ)を読んでみた。 - 神保町系オタオタ日記」
「吉野作造の旧友としての真山青果ーー野村喬『評傳眞山靑果』への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」