神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

吉野作造の旧友としての真山青果ーー野村喬『評傳眞山靑果』への補足ーー

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真山青果とは何者か?』(星槎グループ発行、文学通信発売)中、青木稔弥「青果の多彩なる人脈」は、青果の演劇作家、江戸文学研究者の側面に関わる人脈について、的確にまとめたものである。しかし、仙台出身者としての側面については、紙数の関係で略されている。青果は明治25年宮城県尋常中学校に入学しているが、同級に吉野作造がいた。青果と吉野はその後別々の道を歩むことになるが、野村喬『評傳眞山靑果』(リブロポート、平成6年10月)の年譜には、大正10年頃から旧友吉野との交際復活とある。だが、調べてみるともう少し遡るようだ。
中央公論社の編集者木佐木勝の日記『木佐木日記』上巻(中央公論新社平成28年11月)の、

(大正九年)
六月十二日 
今日、二時過ぎから吉野(作造)さんの談話筆記が麻田*1邸であり、そのあとで、樗陰氏は「これから吉野さんを『鉢の木』へ案内するから君もいっしょに来給え」というので、高野氏はいなかったから自分だけ樗陰氏について行くことにした。
(略)
席上でいろいろ話が出たとき、吉野さんが真山青果氏をよく知っていることや(真山氏は吉野さんと同郷の仙台人だそうである)、なかなかの芝居好きであることを知って興味があった。こないだうちから問題になっていた中村吉蔵の「井伊大老の死」の上演中止問題をめぐって、吉野さんが真山青果氏から頼まれてあっせん役を買って出たというような話も出た。
(略)吉野さんは松竹に関係のある真山青果氏から相談を受けて、こんどの上演中止の真相を尋ね、警視庁などの意向も調べたりして、中間で上演できるようにあっせんの労をとったらしいことがその話でわかった。(略)

大正9年には交際は復活していたようだ。この時期の吉野の日記は『吉野作造選集』14巻(岩波書店、平成8年5月)でも欠けているが、前後の時期を見ると、

(大正八年)
七月二十三日 水曜
(略)
夕方より明治座を見る 真山青果君の「一本杉」の連中に富塚君より誘はれたるを以てなり 三幕ばかり観て帰る
(大正十一年)
三月二十四日 金曜
(略)
二十三日は(略)
午後から夕方にかけて鬼子母神の開泉閣にゆく 真山君の肝入にて同君家族と茂木博士の家族と私の方と三家族懇親の宴会を開ける也 興趣尽きず
九月二九日 金曜
(略)
二十五日 真山君と共に下田に遊ぶ 大仁より下田まで十五里山を上下して自働車三時間半を要す
(略)松陰の遺跡、ペルリ、ハルリス等の遺跡皆よく見届けたり 夜某古老につき昔話をきく 面白き一日なりし
(略)

大正8年7月23日の条中「一本杉」は青果が明治座用に脚本を書いたもの。この記述だけでは、青果と吉野が出会ったかは分からない。大正11年9月29日の条は数日分をまとめて記載されたもの。同月25日に青果と吉野が下田へ行ったことが分かる。前記青木氏の論考によると、昭和4年8月歌舞伎座で上演された『唐人お吉』の脚本に関し、青果がお吉の事跡を調べる為に幾度か下田へ行ったという資料が示されているが、大正11年の頃から関心を持っていたのかもしれない。
もう一つ、青果と吉野の親しさを示すエピソードを吉野の日記から引用しておこう。

(大正十三年)
七月十五日 火曜
(略)昼過富塚君来る 真山君の伝言なりとていふ(はつきり頼まれたのでないかも知れず) 真山例により一杯機嫌で伊藤茂雄君*2にいふ 中央公論社が吉野を看版[板]にして発展しながら相当の礼遇をしないのが怪しからぬ 之が度重つたので伊藤君之を社長に告ぐ そこで社長尤もと考へたとやら 改めて真山君に普通の原稿料以外に毎月二百円とか三百円とかの礼をする 夫には外の雑誌に書かぬといふ条件を附したい 之れの承諾を吉野に求めて呉れと申込んだとやら そこで真山君から僕に之を承知するかとの問合也 冗談ではない そんなことで縛られては迷惑だ 飛んだ余計な事をを[ママ]すると返事してやる(略)

[ ]は編者による注記

青果もいくら吉野と旧友とはいっても、要らぬお世話をしたようだ。

*1:中央公論社長の麻田駒之助

*2:木佐木の同僚の編集者