三上於菟吉というのは、長谷川時雨の内縁の夫だった人らしいが、早稲田大学時代、吉岡信敬の指揮下で応援したことを回想している*1。
そして、同時に、二十二三年前、その当時の早稲田応援団長吉岡信敬氏に指揮されて、Wと白く染抜いた赤い三角旗を振つて、フレ、フレ、ワセダ!を、叫んでゐた青春時代の自分を思ひ出す。
その頃の応援団は今のやうな人数もなければ、纏つた組織もなく、況んや楽隊なんかはなく、烏の如く群れ集つた集団だつた。しかし母校愛と野球情熱については、決して現在の諸君に譲るものではない。否、もつと気違ひじみて、もつと荒れ馬だつた。比較的悪彌次なぞは飛ばさず、声がかれ、咽喉から文字通り血を出しつつ、吉岡氏の音頭で、校歌を怒鳴り『見やわれ等の野球団』といふ、たつた一つの応援歌を繰り返へして怒鳴り、勝てば跳躍し、相抱いて泣き、負ければベタリと地上に坐つて、手放しで号泣した。
ちなみに、三上は秋田雨雀の日記にもしばしば登場する。たとえば、次のような一日がある。
大正8年11月9日 午後から、藤森成吉の「新しい地」の批評を執筆。午後六時ごろまでに脱稿。十一枚。「婦人之友」社により、その足で加能君のところへ原稿をとどけるためにゆき、途中三上君のところにより、坂本紅蓮洞にあった。
「加能」つまり、加能作次郎は当時、博文館『文章世界』の編集主任。
三上は明治24年2月生まれ、明治44年早稲田大学文科予科入学、1年半ほどで中退。昭和19年に亡くなった時の告別式について、『秋田雨雀日記』第3巻から引用しておこう。
昭和19年2月18日 正午から青山斎場の三上於菟吉の告別式に臨んだ。(略)文学報国会代表徳富蘇峰、小説部会代表白井喬二、友人代表谷崎精二、つづいて松竹の大谷竹次郎氏が弔詞を朗読していた。
はてな上に三上のキーワードはあるが、谷崎精二のキーワードは作られていない・・・
ウィキペディア上にはあるが、最近アクセスにやたら時間がかかるのはなぜだろう。