神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

慶應義塾図書館の國分剛二と柳田國男の関係

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『荘内』6号(荘内社、昭和13年7月)が手元にある。発行兼編輯人は斎藤恵太郎、荘内社は東京市芝区に所在。常田書店の300円を100円に下げた値札が貼ってあるので、西部古書会館で買ったのだろう。目次を挙げておこう。
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柳田國男や國分剛二が書いているので、買ったようだ。柳田の「酒田節」の末尾には、「東京朝日 昭和十三・五・十六・七」とあり、「酒田の高野浜は弘法大師が上陸したといふ伝説がある。/(國分生附記)」が付記されている。「酒田節」は『民謡覚書』(創元社昭和15年5月)に収録されている。同書を含む『柳田國男全集』11巻の解題は『荘内』への再録に言及していない。國分の「荘内藩~」も末尾に「(民謡研究二の三)」とあるので、再録のようだ。
國分と柳田の関係だが、『柳田國男全集』別巻1の年譜に國分の名前を発見した。

(昭和一六年)
三月一二日 山形の戸川安章に、「羽州羽黒山中興覚書」を載せた青年団の団報の『神苑』第一号を慶応大学図書館の国分剛二から見せてもらったが、読ませたい仏教史家が二人いるので余分があったら送ってほしいと葉書を書く。仏教史家とは、堀一郎五来重のことであった。(略)

慶應義塾図書館の國分については、
・「慶應義塾の“図書館内乱” - 神保町系オタオタ日記
・「慶應義塾図書館の国分剛二と三田村鳶魚 - 神保町系オタオタ日記
・「慶應義塾図書館の国分剛二と森銑三 - 神保町系オタオタ日記
などで言及したことがある。ネットでも読める『慶應義塾図書館史』によると、明治25年鶴岡生まれ、大正8年雇員として就職後、13年事務員に昇格している。三村竹清三田村鳶魚森銑三の日記に登場する國分だが、柳田の年譜でも確認できたことになる。ちなみに、例の『昭和前期蒐書家リスト』には、國分、柳田、三村、三田村、森の全員が登場している。恐るべし。
國分と柳田がいつから交流があったのかは不詳。柳田は前記年譜によると大正13年4月から昭和4年3月まで慶應義塾大学文学部講師だったので、その間に知り合ったのだろう。その後、柳田の「絵姿女房説話ーー昔話新釈の五」『旅と伝説』3年9号,昭和5年9月中で國分から報じられた出羽の黒川村に伝わる瓜子姫説話を紹介している。國分については、石井敦編著『簡約日本図書館先賢事典:未定稿』(石井敦、平成7年3月)に立項されていたが、めでたくも最近の日本図書館文化史研究会編『図書館人物事典』(日外アソシエーツ、平成29年9月)にも収録された。

二人の蒐集家赤星五郎(赤星鉄馬の弟)と赤星陸治を繋ぐ柳田國男

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『昭和前期蒐書家リスト』がだいぶ出回ってきたようだ。研究者や好事家の皆様、一家に一冊必要ですよ。今回も、このリストを使って見よう。赤星五郎(蒐集分野:陶器に関するもの殊に朝鮮の焼物)と赤星陸治(蒐集分野:和歌、武道)という二人の赤星が載っている。赤星五郎は、大正7年学術財団啓明会に創設資金を提供した赤星鉄馬の弟である。『昭和人名辞典』2巻から要約すると、

赤星五郎
千代田火災常務、昭和タンカー・千歳火災海上保険各(株)取締、成歓農場(資)・成長里牧場(名)各代表
鹿児島県士族弥之助五男、明治30年2月生
大正11年慶大法学部卒業後、泰昌銀行取締、千代田火災監査

五郎の兄鉄馬と啓明会については、最近与那原恵『赤星鉄馬 消えた富豪』(中央公論新社、令和元年11月)が刊行されたので、是非読んでいただきたい。同書によると、成歓農場は大正4年鉄馬が朝鮮に創設した農場である。また、朝鮮陶磁器を愛した五郎の述懐が載っている。

(略)
やきものについては、大正の終わりごろ、青山民吉[美術評論家民芸運動の同伴者。弟が美術評論家で骨董蒐集家の青山二郎]君と同行し、京城で浅川伯教さんにお眼にかかったのが縁のはじめであった。(略)亡父の数多い道具の処理に手を焼いていた母から、私たちの骨董癖をつよく戒めてきた。
(略)(赤星五郎・中丸平一郎『朝鮮のやきもの 李朝』)

[ ]内は、与那原氏による注

「亡父の数多い道具」とは、父弥之助が蒐集した茶道具で、大正6年入札会が開かれ、その入札金の一部が、啓明会の創設資金となった。与那原著によると、五郎の朝鮮陶磁器コレクションのほとんどは、安宅コレクション(安宅英一)に帰したという。
一方、赤星陸治の経歴は、「人事興信録データベース」(昭和3年版)によると、

赤星陸治
三菱(資)参与・地所部長
明治7年1月生、熊本県八代郡の旧家下山群太の二男
同県士族赤星家の養子となり、35年家督相続。34年東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱合資会社入社
長男平馬(明治39年11月生)

与那原著によれば、鉄馬の鹿児島の赤星家は熊本の赤星家と繋がる可能性が高いとしている。そうすると、鉄馬や五郎にとって、陸治の赤星家は本家筋に当たるのかもしれない。
ここで、もう一人『昭和前期蒐書家リスト』に名前がある蒐集家に登場してもらおう。柳田國男である。柳田は鉄馬から資金を援助してもらったことがある。最初は大正3年『甲寅叢書』刊行に際してである。その後、与那原著によると、啓明会の第1回研究助成では「奥羽民間伝承の蒐集」で申請したが不採用となり、テーマを変更して昭和11年「日本民俗語彙の編集刊行」が採用された。民俗学者として著名な柳田だが、文学全集にもしばしば収録されている。次女千枝(大正元年9月生)も柳田の文才の血を受けたか、柳井統子名義の「父」(『早稲田文学昭和15年12月号)で芥川賞候補となる。しかし、17年2月敗血症で亡くなってしまう。夫の名前は、赤星平馬といった。

赤星鉄馬 消えた富豪 (単行本)

赤星鉄馬 消えた富豪 (単行本)

大正2年鴎外が高橋箒庵に語った喜劇談

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漱石や鴎外の全集未収録の逸文が発見されたというニュースが続く。随時追加されている国会図書館サーチや「ざっさくプラス」でも、本名や一時期使っていた別号も含めて丹念に検索すれば、文豪や評論家等の逸文を見つけられるかもしれない。もっとも、漱石や鴎外クラスでは難しいだろうけども。
さて、今回は逸文ではなく、苦木虎雄*1『鴎外研究年表』(鴎出版、平成8年6月)に記載されていない鴎外の事績について。これまた高橋箒庵(本名義雄)の日記『萬象録』巻1(思文閣出版、昭和61年9月)から。

(大正二年)
六月十五日 晴/寒暖計七十度
[森鴎外博士の喜劇談]
午前森鴎外氏来宅、過日福澤の演芸会にて氏に面会の時、余が考案中の喜劇に就き氏の批評を乞ひたしと言ひければ今日約を履んで来り、我一行[ママ]物と題する著書一冊を贈らる。余は内田山掛物揃並に清元隅田川の版本を贈れり。氏の説に、近頃拙者も或る人より喜劇の注文を受けたるが、聞く所に依れば彼の曽我廼家の五郎なる者は喜劇に就き一種の天才あり、大体の筋を咄して彼等の為すに任すれば自然一般人を喜ばすべき喜劇を舞台に表はし得る由、一度試験したらば面白からん云々。

研究年表には、鴎外の日記を転載した次の記述しかない。

(大正二年)
六月十五日(日) 半陰。午前に、高橋義雄を溜池の仮寓に訪ねる。午後、賀古の家で、常磐会が開かれる。

詳細年譜を作ろうと思ったら、日時も会った相手も分かっているので相手の日記も確認すべきと思うが、その点は物足りない。なお、文京区立森鴎外記念館で13日(月・祝)まで「荷風生誕140年・没後60年記念 永井荷風と鴎外」展を開催中。
追記:鴎出版編集室編『鴎外全集刊行会版『鴎外全集』資料集』(鴎出版、平成21年10月)によれば、『鴎外全集月報』16号(昭和6年11月)に高橋箒庵「森鴎外」掲載。

*1:平成10年没

荻原井泉水も泊まった京都の文人宿萬屋

あけおめ。今年もよろしくお願いします。
明治45年1月4日荻原井泉水は新年早々京都へ向かった。読書好きの井泉水は車中でも本を読んでいた*1

八時半ノ汽車ニテ新橋発。車中ニテハ午前中『刺青』(谷崎潤一郎)ヲヨム。(略)

そして、翌日京都で泊まった宿が萬屋である。「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」や「『京都人物山脈』(毎日新聞社)に万屋主人金子竹次郎 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した宿だ。

(略)一時余京都着、ミヤコホテル出張所ニテ午食(略)ソレヨリ三条小橋万屋ニ入ル。(略)

この年、谷崎潤一郎も上洛し萬屋の主人と知り合い、「朱雀日記」が新聞に連載された。しかし、谷崎が上洛したのは4月(新聞連載も同月から)なので、井泉水は同日記を通して萬屋を知ったわけではない。
実は井泉水は明治42年10月に萬屋へ泊まった漱石と面識があった。井泉水の日記明治37年2月3日の条によると、

たま/\夏目漱石さんにあふて七日の大会に出席して下さらんかと頼んだが曖昧な返事をしてをられた。

年譜によれば、井泉水は明治36年2月柴浅茅らと一高俳句会を興し、同年4月以降例会は内藤鳴雪河東碧梧桐高浜虚子が指導し、漱石も時々出席したという。萬屋のことは、漱石から直接ではなくても、漱石周辺の人物から聞いたのかもしれない。谷崎のように主人の金子と親しくなってはいないので、所在不明の金子の日記には名前は載っていないだろう。

*1:『井泉水日記青春篇』下巻(筑摩書房、平成15年12月)。以下同じ。

大正5年10月に開催された臨済宗大学(現花園大学)学長釈宗演の碧巌満講会

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年末ギリギリに『図書』1月号を確保。長谷川櫂「悩める漱石」を読むと、氏の曽祖母円覚寺に縁があり、大正2年夏管長だった釈宗演が曽祖母に与えた書が残っているという。そして、

夏目漱石は明治二十七年(一八九四年)暮れから翌年正月の十数日間、円覚寺で参禅した。大学を出て英語教師になっていた。このとき漱石に対したのが若き日の宗演である。この参禅体験は十六年後に書いた『門』に描かれている。

と続いた。そう言えば、昨年宗演の100遠諱記念で「明治の禅僧釈宗演」(花園大学歴史博物館)が開催されたのを思い出した。図録を見ると、『居士名簿』に確かに漱石の本名夏目金之助の名がある。年譜によると、漱石明治27年12月23日に参禅している。
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最近は近代仏教の研究者に会ったり、著作を読む機会が増えたので見に行ったのだろう。しかし、いい爺さんになっちゃったので展覧会の内容はまったく記憶に残っていない(´・_・`)
さて、数年前までは宗演なんて知らなかったオタどんだが、一旦覚えると自称人間グーグルが機動しちゃうのである。だいぶくたびれた人間グーグルではあるが、最近お世話になっている高橋義雄の日記中に宗演に関する記載を発見。『萬象録』4巻中で、

(大正五年)
十月二十一日
(略)
[釈宗演の碧巌満講会]
午後一時、早川千吉郎氏宅に開かれたる碧巌会満講会に出席す。碧巌会は明治三十九年大石正巳、早川千吉郎、野田卯太郎、朝吹英二、大岡育造、徳富猪一郎等の発起に係り、鎌倉円覚寺の釈宗演師を聘して毎月一回碧巌の提唱を聴聞し来りしが、十一年目の今日に至りて満講と為りたるなり。大岡育造、加藤正義外五、六十人の参聴者あり。広間三間続きの上段の間に高き曲彖を置きて宗演師其上に座し、本日は第九十九則国師十身調御、第百則巴陵吹毛剣の二則を提唱し、時々時勢を諷して聴衆に感動を与へける(略)宗演師は五十四、五歳と見受けられしが、数年前一見の際は今少し書生風を帯び居りしに今や殊勝なる僧形と為り、曲彖の上に座したる処を見れば余り品格ある相貌には非ざれども、臨済諸禅師中に斯かる肖像を見受くる事あり、眼光鋭く説法に底力ありて能く人を感動せしむる。其禅話中、近来禅学流行とて猫も杓子も之を口にし、僅か数則に通ずれば早や大悟徹底したるが如く思ふ者あれども、禅は実地研究を以て得らるべきものにして尋常口舌文字の間に得らるべきものに非ず、と世の軽薄なる禅学者を罵倒する(略)

宗演は安政6年12月現在の福井県大飯郡高浜町生まれなので当時、数え58歳。この時、臨済宗大学(現花園大学)・花園学院学長。明治18年慶應義塾入学だから、高橋とは同窓になる。日記中「数年前一見」とあるのは、『萬象録』1巻大正元年9月21日の条の事と思われる。三井集会所で開催された碧巌提唱で、高橋のほか、大石、野田、大岡、加藤、樺山愛輔夫人*1ら総勢6、70名が出席。高橋は大内青巒の提唱を聴いたことがあるので、両者を比較している。
宗演に関しては井上禅定『釈宗演伝 禅とZENを伝えた明治の高僧』(禅文化研究所、平成12年1月)という伝記というより詳細年譜の感がする書があるが、ここまで詳細な記載はない。宗演の研究者の方が御存知無ければ、参考にしていただきたい。
今年も今日で終わり。来年もよろしくお願いします。

釈宗演伝-禅とZENを伝えた明治の高僧-

釈宗演伝-禅とZENを伝えた明治の高僧-

  • 作者:井上 禅定
  • 出版社/メーカー: 禅文化研究所
  • 発売日: 2000/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:樺山常子。川村純義の娘で、白洲正子の母

聴竹居の建築家藤井厚二の原点ーー東京帝国大学を卒業直後に新式日本倉庫を提案ーー

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数寄者高橋義雄の日記を色々使ってきたが、今回は藤井厚二。意外にも同日記には建築家も何人か出てくるが、今年京都文化博物館で「太田喜二郎と藤井厚二ーー日本の光を追い求めた画家と建築家ーー」展が開催された藤井にしよう。アサヒビール大山崎山荘美術館に行かれたことがある人は、トンネルを抜けて美術館に向かう途中の左手にある聴竹居を見たことがあるだろう。その住宅を設計し、住んでいた人物である。高橋の日記『萬象録』巻1によれば、

(大正二年)
八月二十八日 (略)
[藤井工学士の新式日本倉庫]
午前藤井厚二氏来宅、氏は帝国大学建築科卒業の工学士にして日本の土蔵に就き研究中の由なるが、国民新聞社の阿部充家氏の紹介を以て来訪せしなり。氏は従来日本の土蔵は防火の為め其窓を小さくして空気の流通を妨ぐるが為め湿気を増加するの恐れあり、就ては西洋の書籍館等に其例あることゝて、窓を廃して倉庫内を暗室と為し電灯を以て日常の用を弁ずる、其電気は入用の時に外部の電気と接続せしめて全然火災の危険を防ぎ、空気の流通は倉庫内を貫通する一個の筒を以てするの考なりと云ふ。余は敢て賛否を表せず、其図案の出来上りたる上にて批評すべしと言ヘリ。但し倉庫は日本建築中最も必要の部分なれば、十分に研究して藤井式倉庫なるものを工夫して以て公衆の便宜を謀るべしと勧告し、右倉庫研究に就き平岡其他の倉庫一覧の紹介を為すべく約束せり。
(略)

[ ]内は、原本欄外にある見出しを校訂者が本文に挿入したもの

谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって』(水声社、令和元年7月)の年譜によれば、大正2年7月東京帝国大学工科大学建築学科卒、卒業設計は「A Memorial Public Library」、同年10月合名会社竹中工務店入社。同社在職中の大正7年千家尊福の娘壽子と結婚。日記の大正2年8月は東大を卒業して、竹中工務店へ入るまでの時期に当たる。藤井は後に住宅の通風に床下と屋根裏をつなぐ通気筒を用いるが、その原点がこの新式日本倉庫にうかがえる。おそらく、この記述は藤井の研究者も気付いていないだろう。実に多彩な人物が登場する日記である。
参考:「数寄者高橋義雄の日記『萬象録』を使って稲岡勝『明治出版史上の金港堂』に補足 - 神保町系オタオタ日記

藤井厚二の和風モダン: 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって

藤井厚二の和風モダン: 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって

日本大学総長山岡萬之助が主宰した宗教雑誌『宇宙』(宇宙社)と大東信教協会

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先日の人文研における古本バトルに引っ張り出されて、『宇宙』など3誌を紹介。『宇宙』についてはあまり調べずに臨んでしまったが、その後色々判明したので補足しておこう。『宇宙』8巻3号(宇宙社、昭和8年3月)を見つけたのは、今年の知恩寺の古本まつりに行く途中の吉岡書店で発見。1,000円もするのでまつりの初日に見つけながら迷ったが、何日経っても売れ残っていたので、購入。「宇宙」というタイトルだけ見て、手にしたことのあるSFファンもいそうだが、表紙の上の方にあるように宗教雑誌である。目次の写真を挙げておく。
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大谷尊由「親鸞教義の文化的倫理的地位」や紀平正美「宗教信仰の三階段ーー神道精神を基調としてーー」のような固い記事もあるが、浅井謙吾「霊は実在するか 前東北帝大総長井上仁吉博士に聴く」や補永茂夫「心霊実験会に立会つて亡父の霊と語る」のようにオカルト記事もある。目次からわかるように本誌は仏教・神道キリスト教などの特定の宗教・宗派に偏らない一般宗教雑誌である。本号の前後の号を見たが、
中山忠直「日本人の強さの原因はどこにあるか」(昭和8年6月)
鳥居龍蔵「満蒙の宗教」(同年7月)
福来友吉「我が国民性と霊魂不滅」(昭和9年1月)
金子白夢「宗教勃興期に際してーー宗教人格への待望ーー」(同年10月)
など、拙ブログでお馴染みの人が執筆していて良さげな宗教雑誌である。安食文雄『20世紀の仏教メディア発掘』(鳥影社、平成14年8月)に「企画のユニークさもあって人気が高く、現在でも古書値が高い」とあるわけである。最近読んだ目時美穂『油うる日々:明治の文人戸川残花』(芸術新聞社、平成27年3月)によれば、戸川が巌本善治とともに明治28年7月に創刊した『日本宗教』も特定の宗教・宗派の布教宣伝のために作られたものではなかったという。こういう一般宗教雑誌はあまり研究の対象とされないだろうが、『宇宙』は日本大学総合学術総合センター天理図書館などを合わせると、創刊号(大正14年3月)から終刊号?(昭和19年9月)まで揃うので、誰か研究してほしいものである。
本誌の表紙に「山岡萬之助監修」、奥付の編輯発行兼印刷人に「宇宙社内/椎名正雄」とあるが、主宰者は山岡だったようだ。8巻10号,昭和8年10月に「宇宙社会長山岡萬之助博士」が日本大学総長に就任したという記事がある。また、昭和9年版『仏教年鑑』の「現代仏家人名録」によると、椎名は明治30年2月15日生、日本大学宗教科卒、日本大学主事で『宇宙』編輯とあった*1。吉永さんから日本大学宗教科と関係があるのではないかと言われて、山岡は法学博士だから関係ないでしょうと言ってしまったが、関係あるかもしれない。そもそも日本大学宗教科は、初代学監だった山岡が推進して大正6年4月姉崎正治を顧問として設置されたものである。編輯を担当した椎名が日本大学主事で、執筆者も同大学関係者が多い。ただし、日本大学が組織として関与したのか、学長・総長だった山岡が個人として発行していたかは不明。なお、宇宙社の所在地は丸ノ内海上ビルである*2
本号に掲載された記事を紹介しておこう。先ずは、浅井による井上前東北帝大総長へのインタビュー。

浅井 そうしますと日本的キリスト教といふのはどういふことになりませうか。
井上 (略)一寸脱線する様ですが、私は嘗て小谷部全一郎氏の「日本国民の起源」といふ本を大変面白く読みましたので此際一寸お話して見ませう。(略)日本に来た此の種族(略)こそ本当の神の撰民であり旧約に記るされた如く世界を支配する国柄だ、と神道者である小谷部氏は非常に愛国的熱情に燃へて結論をいふのです。斯うした説に近いものは大本教日蓮宗の田中智学氏等も説いてゐるが小谷部氏は科学的に推論されてゆくので大変面白いと思つたのです。

井上は小谷部の日ユ同祖論を全く正しいとすることはどうかとも言っているが、だいぶ信じていた様子がうかがえる。この井上博士、見覚えがあると思ったら「内務省検閲官が残してくれた田多井四郎治・小寺小次郎の『神代文化』(神代文化研究所) - 神保町系オタオタ日記」で言及した偽史運動を推進した神代文化研究所の所長であった(*_*)
補永の記事は、父親だった神道学の権威で日本大学教授だった故補永茂助の霊を交霊会で呼び出した記事である。詳しくは『婦人世界』に載っているようだが、小田氏や亀井霊媒が出てきて、小田秀人と亀井三郎だろう。
「今様フランチエスコ」を書いた立花國三郎については、「司書官山田珠樹 - 神保町系オタオタ日記」で言及した元カトリック神父である。東京帝国大学附属図書館職員だったが、館長だった姉崎により日本大学へ送り込まれたのだろう。
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宇宙社との関係はわからないが、本号には「大東信教協会々則」が載っている。大東信教協会は日本宗教会を改称したもので、第5条に会員には宗教哲学雑誌の雑誌を配布とあるので、それが『宇宙』なのだろうか。創刊号を見れば、わかるかもしれない。
ところで、山岡が主宰したこの『宇宙』、今泉定助もしばしば寄稿しているが、2人とも並木軍平の皇道図書館の名誉顧問であった。もしかしたら、皇道図書館に関する記事が載っているかもしれないだすよ。

*1:昭和13年版『仏教年鑑』の「現代仏教家人名録」には、「目下『大神道』誌の続刊を企つ」とある。

*2:このビル内には、大正7年8月に創立された赤星鉄馬の啓明会の事務所も入っていた。