神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『真山青果とは何者か?』(星槎グループ)を読んでみた。

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星槎グループ監修、飯倉洋一・日置貴之・真山蘭里編『真山青果とは何者か?』(星槎グループ、令和元年7月)を読んでみた。青果の旧蔵書・資料・原稿用紙類を星槎グループが所蔵していることが判明し、それらを利用した展覧会及びシンポジウムが平成28年に開催された。本書は、その内容に座談会・コラム・主要作品小事典等を加え、書籍化したものである。私は、青果については国木田独歩の通夜における騒動の関係で調べたことがある。岩野泡鳴の日記に通夜の翌日にも騒動があったことを示す記述があることを「独歩の通夜の翌日も一騒ぎ - 神保町系オタオタ日記」に書いている。これは、従来独歩や青果の研究者には知られていなかったと思われる。
本書が明らかにしたように、青果には劇作家のほか、小説家、江戸文学研究者など多くの顔がある。交友関係も広く、本書249頁には昭和19年の住所録の写真とともに、記載された人名の一部が例示されている。相馬御風の名が出ているが、『相馬御風宛書簡集Ⅱ』(糸魚川市教育委員会、平成18年3月)に青果の年賀状が3通(大正5年、昭和6年、12年)収録されている。しかし、「あとがき」に青果を含む21人について遺族が不明とされている。本書によれば、新制作座を主宰していた娘の美保は書簡集の発行された年に亡くなっているが、比較的容易に美保又はその遺族の消息が分かったのではないかという気がする。
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また、住所録に三田村鳶魚の名はあるが、鳶魚の筆記役をした柴田宵曲は省略された可能性もあるが、例示されていない。実は、宵曲の日記に青果が出てくるので紹介しておこう。『日本古書通信』48巻9号,昭和58年9月及び49巻2号,昭和59年2月の「柴田宵曲翁日録抄」だが、

(昭和十五年)
二月十日
(略)午後第六天に真山青果氏を訪ふ。病牀ながら元気よし。用事すみてのち綿谷氏の仕事場に来りて話す。(略)
(昭和十六年)
十月八日 三時頃真山氏の許に到る。永代蔵講義。木村富子、大村嘉代子その他数名。夜七時頃までに僅に一章を了へしのみ。
十二月二十三日 (略)帰来辛じて真山氏筆記書き上ぐ。

とある。
昭和15年2月10日の条中「第六天」とは、青果の住所である東京市小石川区第六天町のこと。この頃具合が悪かったようだが、元々心臓の持病があるものの、亡くなるのは昭和23年3月である。また、昭和16年の記述に関しては、『柴田宵曲文集』8巻(小澤書店、平成6年1月)の「柴田宵曲略年譜」に「真山青果氏の西鶴講義(十~十二月)等を筆記」とある。
青果と鳶魚に関しては、本書253頁にコラムがあり、参考になる。鳶魚の日記に青果が初登場するのは大正13年4月12日で、以後江戸談義に花を咲かせたり、保養中の青果を見舞いに訪れたり、鳶魚主催の西鶴輪講に青果が参加していたことが紹介されている。ところが、『鳶魚江戸学:座談集』(中央公論社、平成10年12月)の「鳶魚と歌舞伎(一)」に不思議な発言がある。

朝倉(治彦) 岡本綺堂には一目おいていたという話です。
鳥越(文蔵) 真山青果はあまり好きでなかったらしいですね。
郡司(正勝) 真山青果は合わないはずだよ。あっちは同じ侍でも田舎者だもの。
鳥越 鳶魚さんは八王子ですから、江戸ッ子かどうかわかりませんよ・・・。

「座談会参加者略歴」によれば、鳥越は早稲田大学教授・演劇博物館長、郡司は早稲田大学名誉教授。真山家は代々仙台藩に仕える武士であった。鳶魚の日記を読む限りでは、鳥越の発言は俄には信じがたいが、要精査である。
以上、『真山青果とは何者か?』を読んで気付いたことをまとめてみた。

真山青果とは何者か?

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