神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都帝国大学文学部心理学教室第三代教授岩井勝二郎の日記ーー書砦・梁山泊から貰った日記にビックリーー

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 書砦・梁山泊京都店の島元さんから幾つかの日記を貰った。そのうち昭和12年の日記を紹介しよう。日記に筆者名の記載はない。半分も解読できていないが、「大谷大学」や「大学」で講義をしていることは直ぐに分かった。最初は大谷大学が本務の先生と思ってしまった。そのうち、動物園から草履のまま「大学」に行ったとか、北白川に住んでいることが分かると、もしや単に「大学」とあるのは、京都帝国大学のことかと気付いた。後は、出てくる知人や学生名から『京都帝国大学一覧』等で調べると、文学部で心理学を教えていた岩井勝二郎助教授と推測できた。
 岩井については、大泉博編『日本心理学者事典』(クレス出版、平成15年2月)に立項されている。これから要約すると、

明治19年2月17日 福井県
大正6年 京都帝国大学文科大学心理学専攻卒、大学院に進む。
大正11年 京都帝国大学文学部講師嘱託
昭和4年 京都帝国大学文学部助教
昭和12年 京都帝国大学文学部教授
同年11月2日 現職のまま逝去

 日記2月17日の条に「また誕生日が来た。五十二回目だ」とあるので、岩井の日記と同定してよいだろう。日記を調べ始めて2日で解明できた。
 日記の中に登場する著名人と思われる人名を挙げると、
・「朝永先生」 朝永三十郎か
・「大阪行。久し振りに末川氏と」 滝川事件で京大を辞め、大阪商科大学講師だった末川博か
・「スプランゲル」「西田先生」「木村」「九鬼」「山内君」 上洛したドイツの哲学者シュプランガーを迎える西田幾多郎木村素衛九鬼周造、山内得立。西田の日記昭和12年5月3日の条に「正午本部にてシュブランガの招待午餐」とある。
・「小笠原君」 小笠原秀実か
・「小原」 「玉川学園」も出てくるので小原国芳
・「佐藤君」 佐藤幸治
 日記は、昭和12年8月9日で記載が終わっている。東京朝日新聞同年11月3日朝刊の訃報によれば、「予て病気療養中だつたが二日午前五時遂に逝去」とある。また、『京都大学文学部の百年』(京都大学大学院文学研究科・文学部、平成18年6月)によれば、岩井の教授発令は亡くなる前日の11月1日である。おそらく亡くなることが分かっていて教授に昇任させたのだろう。心理学教室の初代教授は、千里眼事件で名前が出てくる松本亦太郎。第二代教授は、野上俊夫。大正4年の野上の外遊中は、西田が心理学講座を預かり心理学概論を講じている。野上は、昭和17年に退官。心理学教室の歴代教授という場合、2日だけ教授だった岩井はカウントされないかもしれないが、タイトルでは「第三代教授」とした。
 今回岩井の日記を発見することができた。心理学教室の人が知ったら、大騒ぎになるかもしれない。何日で到達するだろうか。

オタどんが死ぬまでに読みたい未公刊の日記群ーー堀一郎の日記はどうなった?ーー

 わしには、探求書は存在しない。ただ、読んでみたい本はいくつか存在する。次のような日記群である。

堀一郎の日記(当初『堀一郎著作集』で書翰・日記編が予定されていたが、未完のまま完結)
石川達三の日記(河原理子『戦争と検閲:石川達三を読み直す』)
中里介山の日記(松本健一中里介山:辺境を旅するひと』)
西山夘三の日記(『超絶記録!西山夘三のすまい採集帖』)
大原孫三郎の日記(兼田麗子『大原孫三郎:善意と戦略の経営者』)
井上照丸の日記(「昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔 - 神保町系オタオタ日記」参照)

 多くの日記が( )内の文献で使用されているものの未公刊なので、全体を読んでみたい。当該日記の筆者の研究をしたいということではなく、当該分野の研究者がスルーしてしまうような貴重な記述を見つけたいためである。ただ、原本を見せてもらっても解読できないと思うので、翻刻を願っている。特に堀の日記は現在どうなっているのか知らないが、堀が柳田国男から借りて返した後、所在不明になっている柳田の日記も、もしかしたら堀の遺品に紛れているかもしれないので、所在の確認・研究・翻刻を一刻も早くしてほしいものである。

昭和9年鹿児島県立図書館で奥田啓市館長と会った大場磐雄と藤島武二

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 大場磐雄「楽石雑筆〈中〉」*1を読書中。そうしたら、奥田啓市鹿児島県立図書館長を発見。

(昭和九年)
◎一月五日(略)
 九時過の列車にて別れ鹿児島着十一時少過、山田五十麿氏*2にあう、氏の遺物は図書館にありというを以て一同そこに赴く、図書館長に逢い便宜を図らいもらう。折しも藤島武二氏来訪共に館長の案内にて桜島噴火記念館及び諸施設を見る、三階に郷土史料室あり、この一ケースに山田氏の遺物あり(略)

 この「図書館長」は、大正10年から昭和18年まで鹿児島県立図書館長だった奥田である。平成30年に鹿児島大学附属図書館で開催された「鹿児島 書物と図書館の近代-〈知〉の集積と展開- | 鹿児島大学附属図書館」の図録(丹羽謙治・多田蔵人編)によれば、奥田館長時代に与謝野鉄幹・晶子、斎藤茂吉ら多数文学者が訪問していたという。その他に大場や藤島のような考古学者や画家も訪問していたことになる。
参考:「鹿児島県立図書館長奥田啓市 - 神保町系オタオタ日記

*1:『大場磐雄著作集』第7巻(雄山閣出版、昭和51年1月)

*2:正しくは、山崎五十麿(1887-1953)と思われる。

元台北帝国大学教授で法人類学者だった増田福太郎の教職追放ーー増田は、藤沢親雄・小島威彦・堀一郎らとムー大陸の夢を見たかーー

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 『国民精神文化研究所要覧:昭和十六年三月』(国民精神文化研究所昭和16年3月)で職員の一覧を見ていると、色々考えさせられる。多くの職員が、戦後公職追放や教職追放となっている。しかし、在職中は研究に切磋琢磨し、互いに刺激しあった仲だっただろう。増田福太郎(所員)と柳田国男の娘婿堀一郎(助手)もそんな関係だったはずだ。「日本法理研究会にも注目 - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、二人は国民精神文化研究所から共著『東亜宗教の課題』(昭和17年10月)を刊行している。そこでも触れたが、増田については岩波書店の講座『帝国日本の学知』第1巻「『帝国』編成の系譜」所収の呉豪人*1「植民地の法学者たちーー『近代』パライソの落とし子」で、研究対象となっている。
 呉論文では、増田を理解する際に注意すべき点として、恩師筧克彦の影響と参加していたファッショ団体日本法理研究会の2点を挙げている。これに加えれば、W.J.ペリーの『太陽の子供たち』の影響も重要である。増田は「日子伝承」と訳しているが、琉球、台湾、インドネシアなど南方に残る日子伝承について、度々紹介している。ただ、ペリーやその師のエリオット・スミスの学説に従うと、日本の神話や民俗がエジプト起源という不敬なことにもなりかねないためか、『南方法秩序序説』(国民精神文化研究所昭和17年1月)では、

(略)手とり早い比較と類似とを追うて、日本の尊厳なる「天つ日嗣」の伝承と無雑作に結び付けんとする軽挙妄動は深く戒めねばならぬ。所謂実証主義者の案外陥り易い弊とする。

と慎重である。しかし、その一方で続けて、

 唯、南方の新しい法秩序を建設するといふ政策的・意志的な観点に立つとき、如上の伝承や祭祀観念を、日本的法秩序の一翼として参加せしむるといふことは、無理とはいへぬであらう。すなはち、南方法秩序を建設するの大業は、新しい秩序の建設であると共に、天つ日嗣を枢軸とする本然の秩序の回復といふ意味を十分呼吸し得るものと考へる。

と書いている。同僚で竹内文献契丹古伝などに基づき、太古世界を統治していた日本が再び世界を統治するのは当然とする藤沢親雄のトンデモない妄想に近いものを感じさせる。堀やこれまた同僚だったスメラ学塾の小島威彦は、増田の影響があったのか、日子伝承に言及している*2。おそらく、チャーチワードのムー大陸論を知っていたと思われる増田は、同僚の藤沢、小島、堀らとムー大陸について語ることはあっただろうか。
 増田の経歴については、ネットで読める「増田福太郎関係資料一班ーー日本統治下台湾宗教史の一齣ーー(初稿)」の「増田福太郎博士略年譜」に詳しい。昭和14年台北帝国大学農学部助教授兼附属農林専門部教授から国民精神文化研究所所員に転任している。また、昭和21年又は22年の条に「公職追放か?要検討」とある。しかし、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に増田の名前はないので、正しくは教職追放だと思われる。呉論文でも、本文では、

GHQによって彼が「公職追放」された際にも、その理由は彼が「反動学者」だったからではなく彼が「国民精神文化研究所研究員」であったからであった*3

としながら、注125で「戦後に教職追放をされてから数年間、不遇な日々を強いられた」としている。研究者の諸君は、公職追放に言及する場合、『公職追放に関する覚書該当者名簿』で記載の有無・該当事項を確認することや、狭義の公職追放と教職追放の区別を厳密に使用していただきたい。

*1:台湾輔仁大学法律学系助理教授

*2:堀一郎と偽史運動(その1) - 神保町系オタオタ日記」、「堀一郎と偽史運動(その2) - 神保町系オタオタ日記」及び「スメラ学塾と日の御子文化 - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:出典は、増田貞治『増田福太郎伝』(増田貞治、平成15年)。この自費出版の本は、国内の図書館には無いようだ。台湾の図書館にあるのかな。

出版史料にも使える渋谷定輔『農民哀史』ーー平凡社の下中弥三郎と三浦関造ーー

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 一昨日の吉永さんの「日本オカルティズム史講座」第3回には、藤沢親雄、山本英輔、三浦関造下中弥三郎など拙ブログでお馴染みの人物が多数出てきて楽しめた。下中と三浦の関係についても言及されていたので、2人が出てくる戦前の日記を紹介しておこう。渋谷定輔『農民哀史:野の魂と行動の記録』(頸草書房、昭和45年2月)である。タイトルからは歴史書かと思ってしまうが、一般的には農民日記の例とされている。確かにそう言う面もあるが、渋谷は農民詩人なので出版史料としての側面もある。ここに三浦と平凡社を興して間もない下中が登場する。

(大正十五年)
 六月二十四日
(略)
 三浦関造氏の雑誌『自然』を見ていたら、農民自治会の紹介が出ていた。三浦氏は全面的に農民自治主義を支持しており、「この運動は、今後十年たつと全農村を風びすることを予言して間違いない」と書いている。(略)

 三浦の雑誌『自然』(自然社)は、「自然社と三浦関造 - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、実物は未見である。

(大正十五年・昭和元年)
 十月二日
(略)
 慶応病院から平凡社へ行く。そこで啓明会の埼玉関係の名簿を写す。(略)
 三浦関造氏が下中氏の部屋にいて、
「あなたは百姓の予言者です。偉大な詩人になって人類を救ってください。あなたの苦しみは人類の光であり力です。(略)私はあなたのことを九州の講演で話してきました。詩集はやっぱりあなたのがいちばん売れていますね」と、熱心に語りかける。(略)
 十一月十五日
(略)
 平凡社へ行くと、大西伍一君がいた。(略)中西氏が会計に行って二十円頼むと、会計では、どうしても十円だけにしておいてくれという。そのうち三浦関造氏が金を頼みにくる。やはり十円。平凡社会計課は、いまのところ金がなくて、印税の支払いは、一人十円ということにしている様子だ。
(略)
 十二月二十九日
(略)
 再び平凡社へ行くと、三浦関造氏が来られてしばらく話したあと、竹内君と一緒に喫茶店でコーヒーと洋菓子をご馳走になる。三浦氏は私に、
「君は大きな詩人になってくれ!」と、繰り返し言っていた。
(略)

 大西伍一については、「柳田國男に群がる図書館人(その2) - 神保町系オタオタ日記」参照。「中西氏」は、中西伊之助。『農民哀史』は、大正3年に創業し10年ほど経った平凡社の苦しい台所事情もうかがえる日記である。
 「三浦関造と神智学 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように、三浦は大正5年の段階で既に神智学について『第三帝国』に執筆している。一方、下中は昭和30年代には「セオソフィー」に言及している*1。三浦は、大正11年12月から下中の啓明会の機関誌となった『文化運動』(『第三帝国』改題誌)の編集実務を担当*2するなど下中とは親しかった。いつ下中に神智学を教えたのかは、今のところ不明である。
 オカルティストとしての三浦については、ネットで読める吉永さんの「近代日本における神智学思想の歴史」『宗教研究』84巻2号,平成22年が存在する。これに補足しておこう。
・注27で岩間浩『ユネスコ創設の源流ーー新教育運動と神智学』(学苑社、平成20年5月)中に、三浦の英文の出版物にSekizoとあることから「関造」の読みは「せきぞう」であることを紹介している。→三浦の『祈れる魂:詩集』(隆文館、大正10年7月)収録の英文詩にも「Sekizo」とある。
・注35で三浦の『心霊の飛躍』(日東書院、昭和7年6月)の記述から竹内文献を知っていたと思われるとしている。→「『純正真道』に酒井勝軍と荒深道斎の往復書簡 - 神保町系オタオタ日記」で言及したとおり、三浦は昭和7年冬には荒深道斉に天津教のことを教えている。
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知られざる北村小松の大衆文藝傑作文庫『空の非常線 處女よ嘆く勿れ』(艸元社書房)

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 『本のリストの本』の重版記念イベントがあった日に、三密堂書店で「大衆文藝傑作文庫」の『空の非常線 處女よ嘆く勿れ』(艸元社書房)を発見。未知の文庫で、かつ、北村小松執筆なので購入。124頁、400円。昭和12年10月初版、16年10月再版。青森県立図書館・青森県近代文学館編『北村小松展:特別展 没後30年』(青森県文学館協会、平成6年7月)の「北村小松著作年表」に記載なし。所蔵する図書館も無いようだ。
 大衆文藝傑作文庫については、奥村博明『文庫博覧会』・『文庫パノラマ館』(青弓社)では言及なし。しかし、さすが大屋幸世先生は言及していた。『書物周游』(朝日書林、平成3年4月)の「文庫本拾遺」で、矢口進也『文庫そのすべて』収録の72文庫に手持ちの34文庫を追加していて、その中でこの文庫を挙げている。大衆文藝十銭文庫(昭和10年7月)の改題文庫とし、所蔵の長谷川伸『雪の渡り鳥 如水軒と家来 両面盗賊篇』(昭和12年10月初版・16年10月再版)を紹介している。大屋先生の旧蔵書は、どうなったのだろうか。
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大場磐雄『楽石雑筆』に「信仰と迷信に関する通俗科学展覧会」ーー國學院大學博物館で「楽石雑筆展」開催中ーー

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 國學院大學博物館で、「企画展「楽石雑筆―神道考古学の祖 大場磐雄の記憶と記録―」 【会期:2020/11/5~】 | 國學院大學博物館 考古と神道で知る日本の文化・歴史(国学院大学博物館)縄文 土偶 埴輪 土器 神社 宗教 東京 渋谷 無料 Japanese tokyo shibuya Culture History Museum Archaeology jomon dogu haniwa Shinto Shrine religion Kokugakuin University Japan Tokyo free of charge」が12月26日まで開催中。行きたかったが、コロナ禍で上京は断念した。代わりに、『大場磐雄著作集』6巻(雄山閣、昭和50年7月)の「『楽石雑筆』〈上〉ーー大正七年より昭和四年までーー」を読んだ。同書の「楽石雑筆の成り立ち」によれば、『楽石雑筆』は「私の考古学や民俗学に対する揺籃期から成長期への記録であり、学問の方向が定着した大正十年以後は考古学についての見聞や各地の調査及び旅行が中心となり、その後は専ら調査日誌に中心を置いて昭和四十年まで書き綴られている」という。
 6巻の内容は、大場が地理の教師(竹内運平)から貝塚やコロボックルのことを聞いたり、江見水蔭『地中の秘密』『三千年前』を読んで、石器の採集に出かけ、考古学の初歩に足を踏み入れた経緯から始まる。やがて、東京帝国大学人類学教室を訪問、鳥居龍蔵主幹の武蔵野会に入会。國學院大學入学後は、折口信夫の指導で民俗学に傾斜、大正14年末頃から内務省神社局に奉職し、神社所蔵の考古資料に関する記述が多くなり、古代祭祀遺跡への関心が起こり、ライフワークとなる神道考古学研究への端緒となる時期の日録である。
 学生時代に吉永さんに、「先ずは大場磐雄の『神道考古学論攷』を読んでみて」と言われて、同書を読んだことがある。『楽石雑筆』についての記憶はないが、当時の私ではこのような記録の面白さは分からなかっただろう。巨石遺跡探査の記録もさることながら、地方の好古家が所蔵する蒐集品の見学記録が特に興味深かった。今回は、「今、田中緑紅が熱い⁉ 『信仰と迷信』創刊号(郷土趣味社、大正15年)と『ちどり』4号(ちどりや、同年) - 神保町系オタオタ日記」で言及した中山文化研究所主催の「信仰と迷信に関する通俗科学展覧会」についての記述を発見したので、それを紹介しよう。

(大正十五年)
◎七月二十四日、中山文化研究所主催の「信仰と迷信に関する通俗科学展覧会」を見る。本願寺内の武蔵野女子学院中の一ー八室に陳列せり。目録付記の如し。そのコレクションは文医博富士川氏のものを主とし、中村氏その他の採集によれるものゝ如し。為に医学に関係せるもの多し。中について二、三注目せるものを記す。(略)次は第三の治療に関するもの中に、疱瘡神をよける図として牛にのれる図(錦絵)あり。嘉永年間なりという。種痘の輸入古きを思うべし。次に護符と肌守についても興味あるもの数多あり。(略)
 次に各神社の護符を見る。八坂神社のカユズエと蘇民将来、石清水の矢と鳩と杖、開運神社配符の鉾、堀越神社の招き杓子、住吉のおもと人形、摂津西宮の福運達磨等。又立川流神道につきて説明を得たり。(略)
 又一つ明治八、九年頃の郵便報知新報四百五十二号に褌祭の事あり。尾張亀崎の一円にて褌をまつれる図あり。興味あるというべし。

 これによると、展覧会は大正15年4月の京都府立第一高等女学校での開催に続いて、東京の武蔵野女子学院でも開催されたことが分かる。このような貴重な記録を残して、大場は、6巻刊行直前の昭和50年6月7日に亡くなっている。