神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔

書砦・梁山泊京都店で掘り出した(つもり)の『井上照丸追憶録』(井上照丸追憶記刊行会、昭和44年4月)。昭和43年4月に亡くなった元満鉄の調査マン井上の追悼本。わしは饅頭本が好きで、古本市などで面白いものを見つけると安ければ買ってしまう。ただ、饅頭本なら何でもいいというわけでなく、
・戦前に活躍した人であること
・有名人ではなく、といってただの人では困るわけで、書物蔵さんが言うところの半有名人か。学歴は、旧制高校旧帝大早稲田大学、高等女学校などの卒業生が望ましい。
・文学者、国家主義者、出版関係者、図書館関係者、満洲など大陸関係者、トンデモない人など、ちょっと毛色の変わった人であること
・私が関心のある人が故人についての回想文を書いていること
・年譜が付いていること
・日記や書簡が収録されていること
この条件をすべて満たす饅頭本にはなかなか出会えないが、今回はこのすべてを満たす上に、値段が1000円。買った時はよさげな本を見つけたぐらいの気分だったが、少し読んでみると、これは大変な本を見つけたという驚きがあった。
井上の経歴を年譜から要約すると、

明治40年6月 山口県徳山市
昭和3年3月 第三高等学校文科甲類卒
7年3月 東京帝国大学法学部政治学科卒
7年4月 南満洲鉄道株式会社入社、調査部(正しくは、経済調査会)勤務
14年11月 内閣企画院調査官
18年6月 南満洲鉄道株式会社復職、東京支社勤務
21年3月 社団法人金属工業調査会及び財団法人国民経済研究協会常務理事兼任
30年1月 財団法人海外貿易振興会事務嘱託
43年4月 死去

井上の日記は、中学時代から昭和24、25年までの膨大な量が残っているとのことだが、本書には戦時中と終戦直後の日記が摘録されている。井上が、企画院から南方総軍の軍政総監部付として転属した昭和17年のある一日を引用してみよう。

(昭和十七年)
八月十日 月曜
午前十時半、総軍、参謀に会えず(浅間丸ーー撃沈のため)。十一時半、総軍報道部、キャセイ・ホテル、伊地知進氏に会う。
(略)
浅野晃、大木惇夫、大林清、小籔英一等とともに昼食、阿部知二武田麟太郎などの消息をきく。浅野氏の人柄に興味をもつ。富沢有為男の活躍(浅野、大木はジャバへ帰る)。午後、博物館にてーー交換船の連中の見学。邦人の群、家族連れに、子供たちのことを想う。前田多門、鶴見氏令息嬢の一行、外務省、ブラジル帰りの連中。雇員を指揮し、案内する。
二五A宣伝班にて、中島健蔵、大久保班長に会う。
(略)

登場する人物の一部について補足してみよう。
・宮田毬栄『忘れられた詩人の伝記ーー父・大木惇夫の軌跡ーー』(中央公論新社、平成25年4月)によると、大木らジャワに派遣された文士が乗った佐倉丸は、17年3月バンタム湾入口で撃沈され、海中に飛び込んだ大木らは漂流後救助された。この日記に登場する同年8月は、『海原にありて歌へる』の後書をバタビヤの宿舎で書き上げたという。翌9月下旬には現地除隊という形式で、新聞社用の極秘の特別機により帰国している。この日記は、短期間しかジャワにいなかった大木の動向がわかる貴重な記述である。
なお、ジャワに派遣されたメンバーは日記に挙がっている文士のほか、大宅壮一小野佐世男らがいる。また、「博物館」はわしも愛読した『思い出の昭南博物館ーー占領下シンガポールと徳川侯ーー』(中公新書、昭和57年8月)で知られる昭南博物館である。
鶴見俊輔加藤典洋黒川創『日米交換船』(新潮社、平成16年3月)によると、交換船でシンガポールに到着した翌日の17年8月10日前田と鶴見祐輔の子供である鶴見和子・俊輔姉弟らが陸軍の南方総軍軍政顧問だった永田秀次郎を訪問している。
いやはや、この一日の記述だけで十分1000円の価値がある饅頭本である。最後に、同じく元満鉄調査マンで戦後国会図書館に勤めた枝吉勇の「照丸君との因縁」から引用しておこう。

彼は一時シルバーという小型ラジオの会社に関係し、貿易関係の援助などしていたが、その会社が閉鎖してからは翻訳生活に入ったようである。(略)国会図書館から彼のためにこっそり持ち出してやった字引きを片手に、ポーランド語のランゲの大冊を訳し*1おおせもしたし、数々の大冊や短文を手がけていた。

忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡

忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡

日米交換船

日米交換船

*1:オスカー・ランゲ、都留重人監修訳『社会主義体制における統計学入門』(岩波書店、昭和29年12月)