神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田國男

東洋文庫と石田幹之助

石田幹之助が東洋文庫を追われた理由については、「日本古書通信」に推測する記事が載っているらしいが、未見。「東方学」49集(昭和51年1月)中の「石田幹之助博士の訃」で榎一雄が、言及しているので紹介しておこう。 そうした石田博士が東洋文庫を退かね…

岩波書店『「帝国」日本の学知』シリーズ(その2)

大橋図書館の元司書にして、柳田國男の高弟たる大藤時彦の経歴については、『現代人名事典』(平凡社)に、「大橋図書館、国際文化振興会、CIE」とあり、国際文化振興会では石田幹之助の創設に係る図書室と関係があるのか、CIE(GHQの民間情報教育局)図書館…

お札博士スタールのトンデモ山脈(その2)

柳田國男は、スタールの第2回訪日(ただし、山口昌男『内田魯庵山脈』によれば、大正2年は第3回訪日)について、 今度は日本で又藩札の蒐集をしたいと言つて居る。妙なことに眼が留まつたものである。 と記している*1。 スタールのこの藩札の蒐集に影響を与…

資生堂と柳田國男の光と影(その2)

兄の高木も後に資生堂に入社することになるが、意外なところでその名前に出会うことができる。 昨年刊行された佐野眞一の『阿片王』である。 同書には、里見甫の秘書役であった梅村うた(男装の麗人梅村惇の義母)の内縁の夫として登場する。 高木は、昭和1…

資生堂と柳田國男の光と影

柳田國男をめぐる人間像には、色々謎が多い。 『柳田國男写真集』(大藤時彦・柳田為正編。昭和56年3月)中「父と写真」(柳田為正)から引用すると、 昭和初年のころ日本写真会会長だった福原信三氏とも父はまんざら無関係ではなかったようです。という…

エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その3)

大正11年の夏、 ジュネーブ、 エスペラントで会話する二人の日本人。 一人は、エスペラントに限らず、語学の神様と言われ、国際連盟事務局員として、事務次長新渡戸稲造の秘書的役割も務める男、 お馴染みの藤澤親雄である。 もう一人のエスペラントは、ま…

『今和次郎』(川添登著)から

明治、大正期に、民間学者がきら星のごとく輩出して、偉大な業績 の数々を生んだ。そのなかには、現在にも影響を与えているものが少 なくないであろう。にもかかわらず柳田国男の民俗学など、ごく僅かな 例を除いて、そのほとんどは、継承、発展されることな…

『柳田国男の絵葉書』(田中正明編)

[1921年]10月25日(記載) 10月26日(日付印) 柳田孝 殿 舩少しおくれて26日の午後か 27日に立つ、日本人があまり多 くて却つて煩しい 併し仲よしの 新村教授が同舩だ、南フランス では珍しい所を多く見た、マルセ ーユは新開の港町だが見…

「変態の時代」の誕生

『丘の上サ上がつて』(中原中也記念館)中「中村古峡略伝」(曾根博義)から 『変態心理』は大正6年10月から15年10月まで足かけ 10年の間に全103冊を出した。 「変態心理」とは、常態・正態でない心理、すなわち異常心 理という意味で、当時の…

「一将功なって万骨枯る」

これらの研究会あるいは談話会では、研究報告というより も、採訪報告というような性質のものが多かったですね。 さきにも述べましたが、先生は雑誌への報告寄稿の取捨は きわめてきびしかったのですが、こうした会合での報告で も、生のままの資料を好まれ…

柳田国男邸を逃げ出した岡正雄

僕は昭和3年の9月まで先生のところにおったのです。もうとて も先生と朝夕、顔を合わせることに堪えられなくなり、先生の方 も僕に我慢ならなくなったことと思います。それで先生に何度か ここを出たいとお願いしたのだが、うんといわない。あるときは、 …

柳田國男と平井隆太郎

定本柳田國男全集月報31(第26巻)中 「柳田学との出会い」(神島二郎・立教大学教授)から 私が柳田さんの名前を知ったのは、一高在学中のことで、当時私は古代日本人の信仰を研究したいと考えて、いろいろ書物をあさって読んでおりましたところ、同級…