神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東洋文庫と石田幹之助


石田幹之助東洋文庫を追われた理由については、「日本古書通信」に推測する記事が載っているらしいが、未見。「東方学」49集(昭和51年1月)中の「石田幹之助博士の訃」で榎一雄が、言及しているので紹介しておこう。


そうした石田博士が東洋文庫を退かねばならなかった事情は、本人は勿論、関係者のすべてが物故せられている今日、知るすべもない。理事会の記録も結論的なことしか書いていないので、要するに不明というほかはない。生涯を東洋文庫とともに過すつもりでいたに相違ない博士にとって、これほど思いがけない事態はなかったであろう。(中略)
しかし、世間は博士をほおっておかれなかった。昭和九年四月に設立された国際文化振興会は、早速博士を迎えて図書室の創設に当らしめた。(中略)国際文化振興会は(中略)日本文化を海外に紹介するための英文の日本百科辞典を編纂することを主要な事業とした。そして博士はこの百科辞典編纂の主任をも命ぜられた。(中略)
但し英文百科日本百科辞典はついにものにならなかった。(中略)率直にいって、こういう時間のきまった編纂事業は、博士には最も不得手な仕事だったのである。(中略)東洋文庫の理事会の記録をみても、理事諸公が目録の編纂を石田主事に催促していることが何回も記されている。(中略)「濱田(耕作)先生追悼録」(昭和十四年十月、京都帝国大学文学部考古学教室発行)が編纂された時、石田博士はその原稿を一向によこさない。厳重に催促すると、割当てられた枚数の何倍かに当る分量の手紙がきて、何故書けないかが縷々説明してあったという名高い話がある。(中略)
想えば、私が恩師長澤規矩也先生の御紹介で東洋文庫に石田博士を御訪ねしたのは、旧制第一高等学校に入学した昭和六年のことであった。


これを読むと、仕事が丁寧すぎて時間がかかるため追われたと思ってしまうが、そう決め付けてはいけないだろう。岩生成一「石田さんの思出あれこれ」(石田幹之助著作集第2巻 月報)には、


文庫を世界的な東洋学の中心に育てあげられたが、その真相は知らないが、他の策動もあって昭和九年に心ならずも文庫を去られたと仄聞している。


とあるので、事はそう単純ではなさそうである。


ここで私が、新資料を提示できればたいしたものだが、残念ながらないのだ。しょぼーん。なにせ、あの谷沢永一先生が、『書物耽溺』で、


ところで東洋文庫の発足と充実をめぐって最も活躍したのは、のち『長安の春』(昭和16年)でその才識をうたわれた石田幹之助である。その中心人物が昭和九年四月二十五日を以て不本意ながら退職した、その間の事情を私は未だ知らない。


と言っているくらいだからね。わすは、石田辞職の真相を解明できるのは、谷沢氏か、書物奉行氏ではないかと秘かに思っているけどね。


岩生成一は仄聞しただけのようだが、柳田國男は本人から話を聞いていた可能性がある。柳田の『炭焼日記』昭和20年6月8日の条には、


石田幹之助君珍しく来る、(略)此人女子三人、長女もう二十四といふ。(略)東洋文庫などの話をする。


とある。しかし、柳田は真相を記録に残してはいないようである。