大正11年の夏、
ジュネーブ、
エスペラントで会話する二人の日本人。
一人は、エスペラントに限らず、語学の神様と言われ、国際連盟事務局員として、事務次長新渡戸稲造の秘書的役割も務める男、
お馴染みの藤澤親雄である。
もう一人のエスペラントは、まだたどたどしい。
明治43年12月に新渡戸稲造宅で、郷土会の創立を行い、
現在は国際連盟委任統治委員を務める柳田國男である。
後年、この二人は成城に住むことになる。
戦後、新渡戸の高弟だった鶴見祐輔が柳田邸の向かいに住む事になるが、いずれも新渡戸と深い関係のある3人が成城に住むことになるのは偶然なのか?
(参考)『創造的日本学』中「藤沢博士の思い出」(三枝茂智・国士舘大学教授)によると、
連盟の機関には、理事会、総会、事務局があった。1920年の第1回総会に於ける帝国全権委員随員として私はジュネーブに赴任する幸運を持った。事務局には事務局の事務次長として文化事業面を担当する新渡戸稲造博士が居られた。(中略)博士附の秘書としては原田健氏(後のバチカン大使、式部長官)がおられた。そして別働隊として藤沢親雄博士がおられた。
「柳田國男とエスペラント」(奈良宏志。『柳田國男研究資料集成第16巻』所収)から。
第二回渡欧[大正11年5月〜12年11月]後における、藤沢親雄の影響も見逃してはなるまい。たとえば、1922年7月4日、同7日付日記[「瑞西日記」のこと]を読むと、藤沢夫妻が同じジュネーブに居り、親しく往来していたことがわかる。藤沢は当時、日本で一、二を争うエスペラントの達人でたいへんな雄弁家であった。彼は当時日本エスペラント学会の役員をしており、のちに国民精神文化研究所の所員となった人物である。
また、同論文によると、柳田は、大正15年7月に日本エスペラント学会が財団法人化された時から昭和13年まで、学会の理事をしたという。
藤澤と柳田については、大塚英志『木島日記 乞丐相』(角川文庫)の「あとがき」に
『木島日記』小説版の次の巻のモチーフにもなるのであまり詳しくは書けないが、太平洋戦争下、大政翼賛会のある人物のサポートでジェームス・チャーチワードの『失われたムー大陸』が翻訳されているのはよく知られている。ある人物とは藤沢親雄といって偽史研究者の間ではそれなりに知られているが、実はこの藤沢と柳田國男は柳田の国際連盟常設委任統治委員時代につながりがあった。
とある。大塚氏のこの木島日記シリーズ第3部って、まだ出てないか?
藤澤の一高時代(明治44年〜大正3年)のときに、新渡戸は校長(大正2年4月辞職)だったし、東京帝国大学法科大学時代には、新渡戸は植民政策講座担任をしていた(藤澤は法律学科仏法専攻。授業を受けたかどうかは不明)から、かなり古くから縁があったことになる。