神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

山口八九子が描いた年賀状ーー浅草の医師本多冬城から名古屋の尾崎仁三郎宛年賀状ーー


 日本絵葉書会創立20周年記念出版事業として、1月に『絵はがきのサイン』が刊行された。旧い絵葉書に使われた192名の画家のサイン(印章)を分類したものである。氏名の五十音順による一覧だけではなく、サインの形状・文字の種類(四角、三角、丸、カタカナ、漢字、ひらがな、ローマ字、その他)による目次もある。そのため、誰のサインか分からない美術絵葉書を抱えたコレクターにとって便利なツールとなっている。
 つらつら見ていたら、京都出身の日本画家山口八九子(やまぐち・はちくし)の絵葉書が載っていて、見覚えがあった。写真を挙げた絵葉書である。平成29年10月四天王寺の古本まつりで、シルヴァン書房の寸葉さんから800円で入手。本多冬城から尾崎仁三郎宛の年賀状で、消印は浅草、8.1.1となっている。昭和8年の年賀状と思われる。八九子は、この年の10月に亡くなっている。
 本多は、金児農夫雄編『新版現代俳家人名辞書』(素人社書屋、昭和7年5月)によれば、本名東四郎で住所は東京市浅草区亀岡町。医師で、かつて『星座』を主宰した。更に、『日本医籍録昭和9年版』(医事時論社、昭和9年2月)によれば、明治18年7月18日生、43年千葉医専卒とある。 
 受取人である尾崎の方に住所は書かれていないが、『昭和人名辞典第2巻』に載る名古屋市西区下長者町に住む同名の人物と思われる。明治29年9月生まれのメリヤス商で、趣味は俳句であった。同時期に寸葉さんから買った尾崎宛昭和8年の年賀状の差出人鈴木登三*1の住所も名古屋市西区なので、同定の傍証になるだろう。
 本多と尾崎には、俳句という共通の趣味がある。実は八九子も若い頃から俳句をたしなんでいた。「秦テルヲが裏表紙画を描いた中川四明の句誌『懸葵』大正4年7月号ーー玉城文庫の均一台からーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した京都で中川四明が主宰した句誌『懸葵』の故四明翁追悼号である14巻5号(懸葵発行所、大正6年7月)掲載の八九子「四明先生と其俳画」から引用しよう。

(略)父の師であり又私が恩師として重ねて自分の趣味の開眼先輩者としてとくに親しみ深い先生せであつた。
 私が初めて先生に審美学を教つたのは未だ美術学校が御苑内の東南の一角にあつた頃であつた、(略)その講義の中にはきつと俳句が交つて居た、ある時には俳句を作ることもすゝめられた、自分等が俳句に興味を持つ様になつたのもこの時分からであつた(略)絵画専門学校が創立されると共に觸脊美術を講ぜらるゝことゝなつた、当時課外に文芸会か[ママ]よく催された[、]それには四明先生の俳話が主であつた[、]栖鳳春挙先生はじめ各先生方も吾等とも共に聴究されたことであつた、
 このころ校内には俳句熱が充満された、華岳、麦仙[ママ]、竹橋[ママ]、紫峰君等も当時句を作つたものだつた(略)

 『山口八九子作品集』(山口八九子作品集刊行会、平成20年10月)の年譜によれば、八九子は明治42年3月京都市立美術工芸学校卒、45年3月京都市立絵画専門学校本科卒である。また、同書の丹尾安典「八九子のことーー茂るまゝに生るゝまゝに虫の声ーー」によれば、在学中の43年6月『懸葵』に最初の挿絵「夏草」を掲載している。本多が俳句繋がりで八九子に年賀状用の原画を頼んだのかどうかは、不明である。
 ちなみに、本多は『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)に立項されていて、『特選蒐書家名簿』(古典社、昭和10年)掲載の1,000人の1人に選ばれていたことが分かる。また、「ざっさくプラス」によると、大正9年から11年にかけて本山桂川の『土の鈴』に「上野のお地蔵さん」などを寄稿した同名の執筆者がいたことが分かる。

*1:ネットで読める版画堂の「近代日本版画家名覧(1900-1945)」に立項されていて、武井武雄の「榛の会」の会員であった。