神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

竹内栖鳳門下の土肥蒼樹と新しき村の上田慶之助・高橋信之助


 数年前から寸葉さん(骨董屋)の所に、徳岡神泉宛書簡が出ている。ただ、これはというものがなくて私は買っていない。同じく竹内栖鳳門下で神泉に比べると知名度が劣る土肥蒼樹宛の書簡も以前から寸葉さんで見かける。こちらは数枚持っているので、今回そのうちの1枚を紹介しよう。
 昭和16年10月3日付け高橋信之助から京都市の上田慶之助気附蒼樹宛絵葉書である。絵葉書は、新しき村東京支部から発行され、鳩居堂で10月7日から10日まで開催される武者小路実篤個展の案内*1が印刷されている。
 高橋及び上田は、共に新しき村の村内会員だった人物である。『志賀直哉全集』16巻(岩波書店、平成13年2月)の「日記人名注・索引」から経歴を要約しておこう。

上田慶之助 明治31年2月-昭和63年8月。大正9年新しき村の村内会員。昭和8年村外会員となり、故郷の京都において長兄*2の経営する上田善株式会社で紋染意匠を担当して、後に財団法人新しき村理事長

高橋信之助 明治34年5月-昭和62年10月。大正11年新しき村の村内会員。昭和15年まで日向で生活。後藤真太郎の座右宝刊行会に入り美術品の取扱いに熟練し、昭和17年から村の東京支部がある神田・新村堂に勤め、武者小路実篤の絵を扱った。

 実篤が宮崎県に新しき村を創設したのは大正7年なので、2人とも初期の村内会員であったことになる。一方、蒼樹の経歴は、『日本美術年鑑:昭和十五年版』(美術研究所、昭和16年8月)の「美術家及美術関係者名簿」によれば、

土肥蒼樹 (日)名健治、明治28年兵庫県生。竹内栖鳳に師事、旧帝展、文展出品。明石市太寺2丁目太寺公会堂前

「日」は、日本画

 蒼樹と新しき村との関係は、不明である。調布市武者小路実篤記念館の「収蔵品データベース」で「土肥蒼樹」を検索してもヒットしない。入手した葉書には、高橋による書き込みで、すっかり御無沙汰していること、上田から精進の様子を聞いていること、上田と一緒に展覧会に来ていただけたらと惜しむことなどが記されている。蒼樹が上田や高橋とある程度親しかったことがうかがえる。
 上田と蒼樹との交流は、神戸市出身の直木孝次郎の回想でもうかがえる。直木『山川登美子と与謝野晶子』(塙書房、平成8年9月)の「梨と彼岸花ー上田慶之助さんを偲ぶー」から引用すると、

昭和十三年お嬢さんの健康のため、居を明石の人丸神社の近くに移された。(略)このころから神戸にあった私の家との交流が頻繁になる。(略)『新しき村』の本年(一九八八年)五月号に載った上田さんの絶筆ともいえる文章『年月』に、竹内栖鳳門下の画家土肥蒼樹さんの入手された中国泰山の拓本の絶品を携えて私の父に見せにこられた話があるが、この時期のことである。

 ちょうど今、嵐山の福田美術館で「進撃の巨匠竹内栖鳳と弟子たち」展が開催中である。神泉は出品されているが、残念ながら蒼樹は出品されていない。機会を見て、残る蒼樹の葉書も紹介したい。

*1:この案内文は、『武者小路実篤全集』18巻(小学館、平成3年4月)に細川護立宛のものが収録されている。

*2:『人事興信録:昭和九年版』(人事興信所、昭和9年10月)によれば、明治29年4月上田利三郎の長男として生まれた上田善一郎。大正15年鹿の子紋商を継いだ。