神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

挿絵画家武内桂舟と中外商業新報の岩本傳ーー武内桂舟は昭和18年没ですよ~ーー


 今年も四天王寺で春の大古本祭りが4月28日~5月5日に開催されます。古書目録が届いたので見てみると、シルヴァン書房が恩地孝四郎や渋谷修の絵葉書を出品していた。中々いい値段なので、手が出ない。シルヴァン書房が古本祭りで並べる箱に入った絵葉書は3千円未満の物で、3千円以上の物は別置で店主に声をかけて出してもらうことになる。私は貧乏なので、3千円以上の絵葉書は多分買ったことがないと思う。
 今回紹介する岩本傳宛武内桂舟の年賀状(大正5年)は、千円だった。挿絵画家桂舟にそれほど感心があるわけではなく、宛先の傳に見覚えがあったので買った気がする。裏面の写真を挙げておいたが、「鋠平」は桂舟の本名である。また、「父ノ着用セシ物」とある「父」は半介と言い、紀州藩士であった。
 今調べてみると、宛名の傳は全然知らない人で岩田専太郎と勘違いしていたのかもしれない(^_^;)傳は、「人事興信録データベース」で第4版(大正4年1月)がヒットする。それによると、慶應3年生まれで慶應義塾卒業後新聞記者から中外商業新報社の取締役になっている。
 一方の桂舟については、取りあえずWikipediaを参照されたい。ただし、没年を昭和17年としているが、正しくは昭和18年である。Wikipediaには桂舟の墓傍の石碑銘に昭和18年没とあるが息子の圭太は昭和17年の誤りだとしていると、もっともらしい事が書かれている。しかし、例えば朝日新聞のデータベースを検索すれば昭和18年1月5日の朝刊に3日没との訃報が載っていると分かる。一般論で言えば遺族の証言は重視すべきはあるが、父親の没年ですら記憶違いすることがあるので要注意である。ネット上では、他にも「港区ゆかりの人物データベース」や「近代文献人名辞典(β)」などが同様の誤りを犯している。
 桂舟と傳との関係は、不詳である。桂舟が中外商業新報の連載小説に挿絵を書いたのだろうと推測したが、確認できなかった。同紙には、桂舟と同じく硯友社に属した徳田秋聲の連載小説が明治32年~33年に掲載されているので、その頃から交流があったかもしれない。
 晩年の桂舟の様子は、三田村鳶魚の日記*1に出てくるので一部引用しておこう。

(昭和十二年)
二月十九日(金)
(略)◯夜、武内桂舟翁に至り平林和尚画像を頼む、いろいろ面白き話を聞き、古き手扣五点借用、是は先人の筆なり、翁も今年は七十七。(略)
(昭和十三年)
九月七日(水)
(略)桂舟画伯を訪ひ、大休和尚寿像を頼む、その承諾を得たれば和尚へ手紙出す(略)
(昭和十四年)
五月九日(火)
(略)桂舟翁を見舞ふ、翁は画室にありて揮毫最中ゆゑ匆々辞去す、先日不加減のよしなりしも只今は回復せし様子なり、喜ぶべし。(略)
(昭和十八年)
一月四日(月)晴
(略)◯武内桂舟翁、昨日逝去のよし電報あり、翁八十三なり。(略)

*1:三田村鳶魚全集』第27巻(中央公論社、昭和52年6月)