絵葉書は、もっぱら宛名面記載の発信者名や受信者名を見て、知ってる人を中心に未知の人でも旧制高校・旧帝大などの教員らしい人だと買うことにしている。今回写真を挙げたのは、京城帝国大学法文学部支那哲学研究室*1の本多龍成宛である。発信者は、山中武雄で住所の記載はない。消印は広島、(昭和)14年1月26日である。シルヴァン書房から300円で入手。
調べてみると、本多と山中(旧姓岩間)は共に愛知県出身で、大正15年第八高等学校文科甲類卒業後、本多は東京帝国大学文学部支那哲学科へ、山中は同学部国史学科へ進学し、共に昭和4年卒である。昭和14年当時は、本多は京城帝国大学法文学部助教授、山中は広島文理科大学助教授である。
山中については、松岡久人広島大学名誉教授が『竹内理三:人と学問』(東京堂出版、平成10年3月)の「竹内先生の憶い出」で言及していた。
竹内先生は雑誌『日本歴史』五三四号所載の対談「私の古文書蒐集と刊行」において、先生の八高・東大の先輩で広島文理大に奉職された山中武雄(旧姓岩間)先生に、東大入学時にお世話になったことを印象深く述べておられる。山中先生は広島文理大の講師から助教授に昇進されたが、第二次世界大戦末期に応召され、フィリピンで戦死された。(略)後で竹内先生には態々東京からお参りになさった由を御遺族より承り、竹内先生の御人柄に改めて頭の下がる想いであった。
竹内の恩人だった山中は、日本歴史学会編『日本史研究者事典』(吉川弘文館、平成11年6月)に立項されている。それによれば、明治37年9月16日名古屋市生まれで、昭和20年7月20日42歳で戦死。本多の方は敗戦を生き延び、戦後愛知工業大学教授になっている。葉書の文面には、先日本多が来た時に何もできなかったので3月に寄ってくれとか、味噌を贈って貰ったことへの例が述べられ、二人が相当親しかったことがうかがえる。本多は、おそらく平和になった日本で何度となく親しかった山中が生きていればと思ったことだろう。