昨年の知恩寺秋の古本祭りで玉城文庫の3冊500円台には、一番目に張りついた。そこでは、中川四明が主宰した句誌『懸葵(かけあおい)』(懸葵発行所、明治37年2月創刊)が数冊出ていた。句誌には関心がないので、散々迷って何回目かのチェックで購入。京都で発行されてるし、三井甲之*1が度々執筆していて面白そうではあるが、裏表紙が秦テルヲ画の大正4年7月号、故四明翁追悼の大正6年7月号など3冊だけ購入。
平成29年6月から7月にかけて岡崎の星野画廊で開催された生誕130年記念展「秦テルヲの生涯」の図録*2によると、テルヲは大正4年4月に吉原研究を思い立って大阪から上京している。裏表紙の「夏の水道場」を描いたのは、「夏の」とあることから東京に移ってからなのだろう。この小品は、展覧会にも出品されないので観たことがある人は少なそうである。目次と裏表紙の写真を挙げておく。
テルヲと四明の接点は、京都市立美術工芸学校だろうか。テルヲは明治37年同校図案科卒、四明*3は明治33年10月から同校教員嘱託であった。また、テルヲは明治44年京都日出新聞の「こどもらん」で樫野南陽とともに挿絵を担当、四明は同新聞編輯課員であった。
テルヲの年譜を見てると、他にも色々気になる記述がある。
・明治45年2月~7月 巌谷小波、鹿子木孟郎、上田敏、山元春挙、松本亦太郎、深田康算の発起により「テルヲ子供画会」結成
・大正5年6月 高島平三郎、上田敏、松本亦太郎、深田康算を発起人として秦テルヲ画会設立
・大正12年4月 京都府立図書館にて作品展開催
・昭和4年 夏頃、京都市内に戻り、北白川上終町に住む。その後北白川仕伏町に移るか。
また、図録の別紙「正誤表と追記」によると、テルヲの母は同志社デントンハウスの舎監をしていたという。妻初の実家は、一時祇園乙部の取締をした西川繁三郎の義弟ともある。
四明の年譜も面白い。
・明治11年3月 舎密局で技師ワグネル*4のドイツ語通訳をする。