神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大阪の俳人松瀬青々の次男松瀬吉春から野田別天楼宛絵葉書(昭和13年)


 展覧会のチラシが貯まってしょうがない。観た展覧会はもちろん、入手したが観てない物も大量にある。今回整理していたら、平成30年にあった柿衞文庫「明治の大阪が生んだ俳人 月斗と青々」のチラシが出てきた。青木月斗と松瀬青々に関する小企画展である。
 そう言えば、青々の次男松瀬吉春から野田別天楼宛絵葉書を持っていたはずと、絵葉書を放り込んである封筒を探すとありました。寸葉さんから600円で入手。消印は、昭和13年11月27日。文面は、「御誌十二月号」で「鳥の巣」の丁重な紹介をされたことへの御礼である。「御誌」は神戸の俳人である別天楼が主宰した俳誌『雁来紅』(雁来紅社)と思われる。また、「鳥の巣」は、青々『鳥の巣:句集 上・下』(倦鳥社、昭和13年9月)で、吉春が発行者であった。
 京都市から大津市に移転した書砦・梁山泊で入手した青木茂夫『松瀬青々:評伝』(額田天方、昭和49年12月)から引用しておこう。令和3年のプレオープン時に買ったので、シン梁山泊で本を買った最初の人になった(^_^)

吉春は、青々歿後、古泉、蜃楼*1、小洒*2等の指示と、細見綾子の原稿清記の労に助けられながら、青々の「巻頭言集」「随感と随想」「添削抄録」、句集「鳥の巣」上・下、句集「松苗」全四冊等を出版、その後、森古泉の三女芳と結婚したが、昭和二十年八月、子のないまま三十一才で病歿、未亡人はその後再婚した。現在、高師ノ浜の青々旧居は人手に渡っており、青々のぼう大な蔵書、および自筆の書画は、吉春歿後にすべて散逸した。ただ、昭和三十一年、松瀬家を訪れた古川巻石が、損傷しながらもかろうじて残っていた日記、研究ノート類、雑記帳、句帖、句録など(略)を同松瀬家から譲り受け、額田天方氏に保存を依頼、(略)それが今日倦鳥文庫として残っているものである。

 別天楼宛絵葉書は他にも入手していて、「俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記」でも紹介した。その時『南木芳太郎日記三』(大阪市史料調査会、平成26年8月)に別天楼と多田莎平が出てくることを引用した。しかし、昭和12年1月9日に亡くなった青々の告別式である旨の記載を省略してしまったので、改めて青々が登場する他の条も含めて南木の日記から引用する。

(昭和六年)
二月三日(略)
青木月斗・松瀬青々・佐谷孫二郎氏等へ。依頼状差出し置く*3
(略)
(昭和九年)
三月十七日
(略)四時過ぎ三越へ行く。こども研究会主催の端午節句展覧会の相談に列す。後援朝日新聞社学芸部、列席者江馬努[ママ]・(略)松瀬青々・菅楯彦(略)。

(昭和十二年)
一月十一日
(略)午後二時頃より高師浜松瀬青々氏告別式に行く。三時十五分前、多田莎平氏に遇ふ。別天楼・虚明*4・来布*5君等に逢ふ。(略)

 青木著によれば、青々の葬儀の喪主は吉春で、集まった人々の中には、上野精一朝日新聞社長、高浜虚子代理、月斗、佐伯定胤、古靭太夫、木谷逢吟らがいた。青々と南木との関係は、よく分からない。ただ、南木が主宰した郷土研究誌『上方』76号(創元社昭和12年4月)の「上方郷土研究会員名簿」には、青々の妻松瀬吟子の名前がある。おそらく生前の青々も会員だったのだろう。
 なお、『京都帝国大学一覧:自昭和十二年至昭和十三年』(京都帝国大学昭和13年5月)に文学部文学科(国語学国文学専攻)昭和13年3月学士試験合格者として「松瀬吉春 大阪」が見える。おそらく、青々の次男の吉春と思われるが、同定できていない。

*1:横山蜃楼

*2:安井小洒

*3:『上方』1巻3号(創元社昭和6年3月)に、松瀬「天王寺と俳句」、住谷「天王寺漫談」掲載

*4:塚本虚明

*5:入江来布