神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

國學院大學講師尾崎久弥に冷たい折口信夫教授と改造社出版部長広田義夫


 国文学研究資料館の『調査研究報告』43号で翻刻された真山青果の日記(昭和5年)に折口信夫が出てきて、面白い*1

(昭和五年三月)
二日 朝ぐもり
(略)尾崎久弥君より来書、餓死云々と窮状を訴へて援助を求め来る。彼の人とは二三度面話せるだけにて何んの交際なき人(清水君の友人故知りたるなり)なれども事情を聞けば気の毒なり。何んとかならぬものかと床上いろ\/考ふ。兎に角、返事を出して来訪を求む。
(略)
午後四時尾崎君来る。いろゝゝ事実を聞く。細君がヂフテリヤにて重症なる由、重ねゝゝ不幸なり。聞きたる処にては国学院大学の処置、折口君及改造社広田君の態度甚だ冷酷のやうなれど、或は尾崎君の方にも反省すべきものがあるにあらずや。話のまゝにはチョッと受取れざるなり。(略)

 尾崎は、蓬左文庫編『尾崎久弥コレクション目録第1集』(名古屋市教育委員会、昭和52年2月)の年譜によれば、明治44年國學院大學高等師範部国語漢文科卒。大正11年『江戸軟派研究』を自費出版し、以後盛んに著作活動に入り、昭和4年からは同大学講師を務めていた。一方、折口は明治43年同大学大学部国文科卒で大正10年から同大学教授であった。
 この二人は國學院大學在学中から親しかった。加藤守雄『折口信夫伝:釈迢空の形成』(角川書店、昭和54年9月)が引用している『短歌春秋』創刊号の尾崎「歌壇思ひ出話」から孫引きしておこう。

当時、国大では、一年上の大学部に折口信夫氏、同年の大学部に、武田祐吉君がゐた。(略)折口氏は交際好きで、格別私と親しくしてくれて、当時私は、人の情で通学してゐたから、従つて物見遊山はてんからしなかつた。それを不憫がつて、折口氏は、よく新富座あたりへ案内して上場をあてがひ、弁当も注文してくれて、自分は見ずに帰るといふ事があつた。当時、折口氏は、近世唄本の蒐集もあつて、その頃貰つた横本一冊は、未だ素質のいい本として、私の書庫を飾つてゐる。

 また、尾崎『江戸小説研究』(弘道閣、昭和10年3月)の「あとがき」には「折口信夫兄の推挽で、母校国大の講師に拾はれ」とあるので、尾崎に対する折口の面倒見の良さがよく分かる。昭和5年に2人の間に何があったのか分からないが、一時的に折口の御機嫌を損ねたのだろうか。
 改造社の「広田氏」がどう関わっているのかも分からない。「広田氏」は、出版部長だった広田義夫と思われる。広田は、関忠果・小林英三郎・松浦総三・大悟法進編著『雑誌「改造」の四十年:付改造目次総覧』(光和堂、昭和52年5月)の橘徳「「現代日本文学全集」のころ」に『現代日本文学全集』の編集部長を兼務する出版部長として出てくる。いずれにしても、昭和7年6月に尾崎編で改造社から『草双紙選』を刊行しているので、改造社との関係もその後改善したことになる。
 広田は、残念ながら稲岡勝監修『出版文化人物事典:江戸から近現代・出版人1600人』(日外アソシエーツ、平成25年6月)には立項されていない。しかし、改造社を辞めた後に学藝社を創立していて、戦時中水上勉和田芳恵の紹介で勤めたり*2、戦後真渓涙骨の息子真渓蒼空朗が勤めていたりする*3。なお、小田光雄近代出版史探索Ⅱ』(論創社、令和2年5月)に兼常清佐『音楽概論』(文藝春秋社、昭和7年6月)の編輯兼発行人として出てくる広田義夫も同一人物なのかは不明。学藝社の創立は遅くとも昭和8年なので、同一人物だとすると改造社の後に文藝春秋社に勤め、その後学藝社を興したことになる。

*1:青木稔弥・内田宗一・高野純子・寺田詩麻「[翻刻]青果日記(昭和五年)ーー眞山青果文庫調査余録(三)ーー」。「WEKO - 国文学研究資料館学術情報リポジトリ」で読める。

*2:『新潮』昭和52年12月号の水上「和田芳恵さんのこと」。『水上勉全集第26巻』(中央公論社、昭和53年11月)の年譜によれば、昭和16年2月報知新聞社校閲部から学藝社に変わり、8月には三笠書房に移った。

*3:金沢文圃閣から復刻された『昭和21年度版最新出版社・執筆者一覧』(日本出版協会、昭和21年9月)の「出版社一覧ーー昭和廿一年六月現在ーー」