神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大東亜学術協会の機関誌『学海』ーー敗戦を巧みに生き延びた戦時下の雑誌ーー

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 『学海』2巻7号(秋田屋仮事務所、昭和20年8月10日)は、2年前知恩寺の古本まつりでヨドニカ文庫から300円で購入。和本の均一箱に入っていたような気がする。目次を挙げておく。
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 「青山光二が描いた京都学派の奇人土井虎賀壽と『鹿野治助日記』 - 神保町系オタオタ日記」で言及した土井虎賀寿が書いていることや敗戦直前の発行なので買ってみた。ところが、巻頭の松村克己「「まつり」と「まこと」」に、「昭和廿年八月十五日正午、ラヂオを通して国民は 畏くも 玉音によつて御詔勅を拝したのである」とあり、末尾には「(二〇、八、二七)」とあって、実際は敗戦後の発行であった。慌てて記事を差し替えたのだろう。内務省への納本分の奥付はどうなっているだろうか。また、「後記」には、「本誌の編輯企画に対しいろいろ御骨折を頂いてをります大東亜学術協会は、今東方学術協会と改名されました」とある。
 大東亜学術協会の機関誌『学海』については、幾つかの文献が言及している。高崎隆治『戦時下の雑誌:その光と影』(風媒社、昭和51年12月)では、2巻2号、昭和20年2月の湯川秀樹の科学随想「飛行機雲」と座談会「芭蕉研究」における湯川の発言に注目している。大東亜学術協会については、まったく言及していない。
 これに対して、菊地暁「民族学者・水野清一ーーあるいは、「新しい歴史学」としての民俗学と考古学」坂野徹編著『帝国を調べる:植民地フィールドワークの科学史』(勁草書房平成28年2月)は、言及してくれている。菊地先生によると、大東亜学術協会は昭和17年大東亜共栄圏の風土、民族。文化を学術的に調査研究し、以て大東亜新文化建設に寄与」することを目的に設立されたという。東方文化研究所を中心に京都の人文学者を総動員したような団体だった。同論文によると、誌名の変遷は次のとおりである。
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 菊地論文を受けて更に詳細な研究が発表されている。ネットで読める久保田裕次「大東亜学術協会の設立と活動」『京都大学大学文書館研究紀要』17号、平成31年3月である。詳細は、それを見られたい。団体も機関誌も敗戦後逞しく(?)生き延びて、『学海』は『学藝』と改称して昭和23年9・10月号まで発行された。しかし、たとえば前記の松村は京都帝国大学文学部助教授(宗教学)だったが、教職追放となっている。