神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和13年京都帝国大学総長濱田耕作の追悼会で太田喜二郎のスケッチ画を観ていた大場磐雄ーー植田彩芳子「太田喜二郎研究:その画業と生涯」への補足ーー

 「古本が古本を呼ぶ」(by 高橋輝次)と言われるが、「展覧会が展覧会が呼ぶ」こともある。平成28年7月から9月まで京都文化博物館で「アートと考古学 物の声、土の声を聴け」展が開催された。ここで展示された考古学者濱田耕作による昭和8年石舞台古墳調査に同行した太田喜二郎が描いた絵巻物《石舞台古墳発掘見学絵巻》の中に、調査風景を描いている場面がある。そこに出てくるパステルのスケッチ箱が太田邸に残されていることが分かり、更に太田邸の設計者が藤井厚二だったことから、「太田喜二郎と藤井厚二ーー日本の光を追い求めた画家と建築家」展が平成31年(令和元年)に京都文化博物館目黒区美術館で開催された。また、京都文化博物館ではそれに先駆けて、平成29年に「京都の画家と考古学者ーー太田喜二郎と濱田耕作ーー」展も開催されたところである*1。『アートと考古学展』(京都文化博物館平成28年7月)から当該場面を挙げておく。「梅原先生」は梅原末治、「末永先生」は末永雅雄である。
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 植田彩芳子「太田喜二郎研究ーーその画業と生涯」並木誠士編『近代京都の美術工芸:制作・流通・鑑賞』(思文閣出版平成31年3月)によると、太田と濱田が属した京都帝国大学を結びつけたのは、太田と京都府第一中学校の同窓である羽田亨であった*2。太田は、京都帝国大学第三高等学校の職員学生による美術サークル「三脚会」に参加することとなり、ここで濱田は太田から絵を学ぶことになる。
 濱田は自身の考古学に関する著作にしばしば太田の画を用いた。また、考古学調査や旅行に太田を誘い、太田はその記録をパステルに描いたり、旅行記を漫画絵巻にした。絵巻には、濱田が詞書を書くなどしたという。
 この太田によるスケッチが「大場磐雄『楽石雑筆』に「信仰と迷信に関する通俗科学展覧会」ーー國學院大學博物館で「楽石雑筆展」開催中ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した大場磐雄の日誌『楽石雑筆』*3に出てくるのを発見した。

(昭和十三年)
◎九月二十四日(土)(略)京都帝大へゆく。浜田先生の追悼会準備の為教室員一同集まり居らる。既に先生の著書並に遺墨はほゞ陳列しありたり。一覧す。先生幼年時のスケッチブックなどいと珍らし。軍艦の図、汽車の図なか/\に巧なり。それより晩年に至る迄のノートブック多数あり。或は遺跡のスケッチあり。遺物の見取図あり。それよりも量多くして興味深きは各地の風俗と風景、又は諸所の人物画なりとす。遺墨に於いて珍らしきは毛筆にて書かれし国定教科書の古代の遺物の一文にして、洋罫紙に筆にて書かれたり。初稿は相当に内容を異にせるが如し。これが先生の絶筆にして先生の我が考古学上の貢献も亦これに尽くるというも可ならん。次に多数の書、画あれど先生と太田画画伯その他とが各地を旅行せられし折のスケッチ(画伯の画に先生の文)最もおもしろく、その面目躍如たるものあり。
(略)
◎九月二十五日(略)百万遍にゆきて式場の準備を手伝う。(略)食後一堂に会して座談会となる。先ず西田教授の追憶談は先生の初任当時児島高徳の墓を調査せし頃のことを物語られ(略)次で太田画伯の談話。これは藤平画帖の話を中心としてせらる。(略)

 濱田は、この年の7月25日に京都帝国大学総長に在職のまま亡くなっている。亡くなる前の状況は、「清野謙次教授による窃盗事件の報に接した浜田耕作京都帝大総長の心情 - 神保町系オタオタ日記」参照。大場が観た太田のスケッチが何だったのかは不明。ただ、《石舞台古墳発掘見学絵巻》の詞書は太田自身によるものなので、それ以外のものということになる。
参考:藤井厚二については、「聴竹居の建築家藤井厚二の原点ーー東京帝国大学を卒業直後に新式日本倉庫を提案ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:降旗千賀子「展覧会から展覧会へーー画家と建築家の企画展はこのように立ち上がった」『太田喜二郎と藤井厚二:日本を追い求めた画家と建築家』(青幻舎、令和元年5月)

*2:大正6年5月に京都商業会議所で開催された「太田喜二郎作品展覧会」の発起人に内藤湖南や深田康算の名があるのも、京都帝国大学文学部助教授だった羽田の引き合わせだったという。

*3:『大場磐雄著作集』8巻(雄山閣出版、昭和52年1月)